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小説 「僕と先生の話」 8

8.来訪者

 昼食の後片付けを終え、ひと休みしていたら、インターホンが鳴った。
 ひとまず、僕が応対した。
「岩下です」
「……どちらの岩下さんですか?」
「あ、新しいハウスキーパーの方ですか?私、出版社の者です」
 彼は、僕の返答に少し驚いたようだったけれど、いそいそと鞄から名刺入れを取り出し、カメラに向けて名刺をじっくり見せてくれた。

「少々お待ちください」
 先生からも「出版社の岩下さん」が来たら迎え入れるよう、言われている。出版社の名前と、先生の担当編集者である岩下さんのフルネームと顔写真は、僕も事前に確認済みだ。
 そして、彼と善治以外の人物は、追い返すようにと指示を受けている。

 玄関の扉を開け、僕は岩下さんと丁重に挨拶を交わし、自分が面接を受けた部屋に彼を案内し、お茶を出した。
 岩下さんは、僕と同じくらいの年代の、いかにも気が弱そうな人だった。イエス・キリストの肖像画を思わせる風貌で、腰が低く、ひどく疲れている感じだ。声が小さくて、体も、それほど大きくはない。それでも、彼は出版社での熾烈な競争の中を生き抜いている。
 製薬会社に居た頃の自分を思い出す。
「坂元さんは、いつから、ここでのお仕事をされてますか?」
「まだ、8回目くらいの出勤です」
「先生は、お元気ですか?」
「お元気ですよ。お呼びしますね」
「いや、そんな……無理には……」
「用事があるから、いらっしゃったんでしょ?」
「いえ、あの……私はただ、先生の体調が、気がかりで……」
 僕は、栄養失調の件を思い出した。
「今のところ、先生はスケジュールに余裕があるし、食欲もあるみたいで、僕の料理を、たくさん食べてくれますよ」
「そうですか……良かった……!」
 岩下さんの眼に、涙が滲んだ。
「いやぁ、すみません。私、このところ他の仕事が立て込んでまして……吉岡先生のお宅に、なかなかお伺いできなくて……」
今にも泣き出しそうだ。
「……新しい人が見つかって、良かったです。優しそうな方で……先生とも、気が合いそうで」
 単純にすごく優しい人なのか、忙しくて精神的に参っているのか、極度の睡眠不足なのか、分からないけれど……彼の、先生を想う気持ちは、尋常ではない気がした。
 もう、彼の眼は真っ赤だ。
「……先生を、お呼びしますね」
「お願いします」
 3階から降りてきた先生は、いつも通りの博士みたいな喋り方で、とても機嫌が良さそうに彼と話し始めた。
 泣きそうだった岩下さんは、すっかり元気になって、にこやかに、事あるごとにお辞儀をしながら、次回作の締切や、前作の売行きについて話していた。元気な先生に会えたことを、心から喜んでいるみたいだった。
 帰る頃には、綺麗な白目に戻っていた。

 玄関で岩下さんを見送った後、先生が言った。
「いつか、3人で一緒に食事が出来たら、楽しいだろうね」
「彼が来る日は、決まってるんですか?」
「いや、特に決まってはいないよ……向こうのスケジュール次第かな?」
「事前にご連絡いただけたら、3人分の食事、作りますよ」
「そうかい?彼にも伝えておくよ」


 その日の夕食の時間、先生は付き合いの長い岩下さんについて、あれこれ教えてくれた。
「彼は、よく、うちに午睡をしに来るんだ」
「午睡……え、昼寝ですか?」
「会社で仮眠を取るわけにはいかないみたいだし、ご自宅には小さいお子さんがいるから、ゆっくり寝ていられないみたいだよ」
「そうですか……」
 話をしながら、先生はピッチャーから ご自分のマグカップに麦茶を注いだ。
 この先生は、お酒は一滴も飲まないけれど、毎日かなりの量の飲料を飲む。特に食事中は、平気で僕の3〜4倍は飲むと思う。使っているカップも大きい。

 先生は、彼がいかに聡明であり、寛大かつ柔軟であるか、懇々と語った。そして、彼のことを「不死身ではないかと思うほど、身体が丈夫」と話していた。

「私が今、職業を持った『人間』として生きていられるのは、彼のおかげなんだ。
 彼が居なければ、私なんて ただの『ひきこもり』だ」
僕は、あえて何も言わなかった。
「私は、何度、彼に命を救われたか分からないんだ。……大切な友人だよ」
 大切な友人。僕が、そう呼ばれる日は、来るだろうか。

「あ、そうだ」
 小さく「ごちそうさま」と言って食器を重ねてから、立ち上がる前に、先生が言った。
「彼のひげが、あれよりもっと伸びている時は、いたずらに刺激してはいけないよ」
「どういうことですか?」
「……身だしなみに割く時間が無いほど忙しいと、人間は、心が荒んでくるものだよ」
「……気を付けます」
「そろそろ、限界が近いと思うねぇ……何事も起きなければ良いけれども」
 昼間の彼の様子からして、限界が近いというのは、間違いなさそうだ。

「彼は、滅多なことでは怒らないし、天才的に気持ちの切替えが早いんだ。
 でも……彼だって人間だし、確かに辛抱強い人ではあるけれども、元来の彼は、とても繊細なんだ」
 まだ食事が終わっていない僕は、先生のお話を、黙って傾聴していた。
「それでも、彼は確固たる信念を持って、編集の仕事を続けているんだ。
 だからこそ、私は彼を信じている」
僕は、口に物を運ぶのをやめた。
「彼が本気で怒るようなことを、君がしたら、私は君を解雇しなければならない」
「……肝に銘じておきます」

「彼が居るからこそ『人間』であり続けられるような作家は、私だけではないんだ。
 彼は、この国の宝だ」
それだけ言うと、先生は食器を持って立ち去った。
 残された僕は、食べるのを再開した。

 おそらく、先生の作家人生において、最も重要なキーパーソンは彼なのだろう。
 1階の和室と応接室は、いつも綺麗にしておかなければならない。

 僕は、ただの『奉公人』だ。


 僕は、この仕事を始めてから、先生の影響で落語に興味を持つようになった。
 先生は、ほとんどテレビを観ない。ごく限られた、お気に入りのチャンネルしか視聴しない。観る番組にも、相当なこだわりがあるらしい。(食事中に観る番組や映画について、選ぶ権限は僕には無い。僕自身が観たいものは、自宅で録画してあるから、別に構わない。)
 先生は、人間のタレントは一切画面に登場せず、落ち着いたナレーションとともに、野生動物の暮らしぶりが淡々と偽りなく伝えられるような番組が、いちばん好きだと言っていた。最新の医療技術や、恐竜に関する最新の学説について真面目に解説するような番組も、好んで観ているようだ。
 逆に、バラエティー番組やワイドショーの類はまったく観ないし、動物が出てくる番組でも、大勢のタレントが「可愛い!」を連発し、自分のペットの自慢を始めるような番組は、忌み嫌っている。
 先生は「バカ騒ぎ」や「時間の空費」が大嫌いで、静かで大人びた雰囲気を好む。そして、ご自身の創作活動のプラスにならない情報は、徹底的に排除する。
 そんな中で、落語は「安心して観られる」部類に入るようで、お気に入りの噺は、何度も繰り返し鑑賞する。テレビ番組でも、CDでも。
 落語の世界には『奉公人』という立場の人達が、たびたび登場する。

 僕は、屋敷を綺麗に掃除して、美味い飯を用意していればいいだけの『奉公人』なのだ。
 画材に触れることは、許されない。
 読者として絵本の感想を述べることはあっても、製作サイドの人間として、意見を求められたことはない。出版される前の原稿を目にすることが出来るのは、先生と岩下さんだけだ。


次のエピソード
【9. 先生の庭】
https://note.com/mokkei4486/n/nea2d056338a9

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