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小説 「ノスタルジア」 1

1.研鑽の場

 夜の町工場に、たった一人で旋盤に向かう職人が居ました。彼は、大切な一人娘のために少しでも長く働いて、1円でも多く稼ごうと、毎晩遅くまで頑張っていました。
 現場責任者である常務が居る日は「早く帰ってやりな!」と急かされてしまいますが、常務が休みの日には、彼自身がその代理を務めます。自分が「責任者」なのですから、好きに出来ます。

 黙々と製品を造っていた彼は、他には誰も居ないはずの現場で、不意に人の気配を感じました。いつものように、一旦帰宅した工場長が「早く帰れ!」と言いに来たのだと思って、すぐには振り向きませんでした。(工場長の家は、現場のすぐ近くにありました。)
 しかし、同じ場所から動かず、じっと こちらを見ているその人物は、何も言いません。万が一「不審者」であっては困るので、彼は機械を止めて顔を上げました。
「……松くん、まだ居たの?」
 そこに立っていたのは、つい最近 中途採用で入社したばかりの新人でした。32歳には到底見えない若々しさと、食事中以外は絶対に外さない黒色のマスクが印象的な人材です。そして、無口で職人気質の彼には、体じゅうの至るところに、過去に働いた工場で負ったという傷がありました。
 彼は、いつも事務所でパソコンを使う仕事をしています。この会社にはパソコンを巧く扱える人材が少ないので、彼は重宝されていました。
「今日中に終わらせないといけない分が……多くて……」
彼は、質問に答えながら歩み寄ってきました。
「誰かに、手伝ってもらえなかったの?」
睦美むつみさんが……『一人でやれ』って……」
「あの、馬鹿……!!」
睦美という名の職人は、新人が入るたびに【試練】と称して無理難題を押し付ける、タチの悪い奴でした。「自分は先代の工場長の孫だから」というだけの理由で、社内では威張り散らしているのです。
 新入りの立場では、逆らえなかったのでしょう。

「あ、あの……わたるさん……」
「何だい?」
無口な新入りが、しばらく押し黙ってから、声を震わせて言いました。
「ここで……見てても、いいですか……?」
タイムカードは、既に切ってあると云います。
「俺は別にいいけど……あんまり帰りが遅いと、先生が心配するだろう?」
彼が とある絵本作家の家で間借りをしているということを、亘も知っていました。そして、亘はその絵本作家と面識がありました。一緒に、この現場で働いたことがあるのです。だから「先生」の性格は、よく解っています。棚子たなこの彼が、悪意に満ちた先輩によって長時間の残業を強いられていると気付いたら……きっと、怒鳴り込んできます。
 しかし、彼は先生のことなど、何も言いません。
「俺……いつか、もう一回、現場の仕事に戻りたいんです」
 亘は、それについては何も言い返しませんでした。ただ、自分が乗る予定の電車の時刻を告げ、それまでには駅に到着しなければならないと念を押しました。

「あ、あ……ありがとうございます!」
 深々と頭を下げた新入りは、まだ少し震えています。
「袖、危ないから捲っておきなよ」
「は、はい!」
彼は、慌てて左の袖をくるくると捲り上げました。
 長い袖が ぶらぶらしていた彼の左腕は、肘くらいまでしかありません。前腕の大半は、ここへ来る前に働いていた工場でプレス機に挟んでしまい、失ったと云います。
 それでも「現場仕事に戻りたい」と言った彼の熱意に、亘は敬意をもって応えたいと思いました。

 その日から、2人の【居残り勉強会】が始まりました。亘は、新入りの悠介に旋盤の扱い方を何時間でも見せてやりながら、個々の製品や取引先の特色について、知りうる限りのことを教えました。そして、悠介が新しい環境に慣れてきた頃からは、帰る前の機械の掃除を任せてみることにしました。学校や他社で何年も旋盤を扱ってきた悠介でしたが、掃除とメンテナンスを右手ひとつでやり遂げられるようになるまでには、少し練習が要りました。

 初めは2人きりで行っていた【勉強会】でしたが、少しずつ参加者が増えていきました。
 真っ先に巻き込まれたのは常務で、現場責任者の自分が若い2人を残して先に帰るわけにはいかないと、“老体に鞭を打って“付き合ってくれました。(70代の工場長よりは15歳も若いので、“老体”という言葉を使うのは、本人だけでした。)
 やがて、その常務を慕う若い女性の職人も、参加するようになりました。彼女は あの睦美の妹で、同じく「先代の孫」ですが、性格は全く違います。兄のように、新人を虐めたり、目上の人にまで暴言を吐いたりはしません。非常に仲間想いの、優しい人です。そして、彼女こそが「次の工場長になる」と正式に決まっていたのです。ですから、彼女には学ばなければならない事が たくさんありました。夜の【勉強会】に参加することに、迷いはありませんでした。
 そんなものが開催されていることを後から知った工場長は、彼らの労働意欲を褒め称えましたが、事故防止のために いくつかの条件を課しました。「週に一度、金曜の夜だけに開催すること」「参加者の安全には、常務が責任を持つこと」「金曜日であっても、常務が不在ならば中止にすること」「必ず、定時を過ぎてから始めること」「どんなに遅くとも、21時には終わらせること」……従順な彼らは、それらの条件をきちんと守りました。



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