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小説 「僕と彼らの裏話」 45

45.暗雲

 生命を賭すほどの忠義を魅せていた彼が、会社を辞めた……。その事実は、在籍中の人々を大いに動揺させた。社長は彼の進退について あえて公表はしなかったのだけれど、僕が専務と共に彼のロッカーの鍵を開け、中身を全て車に積んで持ち帰る様子を複数の従業員が目撃したため、それは「周知の事実」となった。
 そして、彼の退職について「専務による【強要】があったに違いない!」と噂する従業員が少なからず居た。

 常務が交代してからというもの、社内には不信感と苛立ちが満ち満ちていた。日常的に、陰口や口論ばかりが聴かれるようになり、石川常務を慕っていたからこそ踏ん張っていた人々は、一人残らず辞めていった。偉大なる西島相談役でさえ、彼らを引き留めることは叶わなかった。
 それでも、若き専務は独自の人脈を活かして複数人の大卒者を他社から引き抜いてきた。僕には、引き抜かれてきた彼らは「救世主」に思えたけれど、古参達の大半は、それを良く思わなかった。まるで、専務が『侵略者』であるかのように言い募り、後から入ってきた社員達にも、何かと辛く当たった。
 そして、相変わらず新常務は洞察力と統率力に欠けていた。「祖父の七光り」で重役に就いただけの彼には、先代の石川常務ほどの人望も手技も無く、また、それらに関しては実妹である社長にも到底及ばなかった。
 僕としても、正しい表記を何度 教えても頑なに僕の姓を「坂本」と書いて寄越す彼が、今ひとつ信用できなかった。
 古参達から『バカ兄貴』と呼ばれているだけのことはあった。
 そして、僕が何よりも許せなかったのは、新常務が「社長の実兄」という立場に乗じ、公共の場にあるまじき暴言やごとを、社長と その内縁の夫である専務に浴びせることや、それが口論にでも発展すれば、わざとらしく人前で激怒してみせて、自分の職務を放棄し帰ってしまうことだった。


 僕は、そんな険悪な空気の中でも、どうにか頑張っていたけれど……ある朝、突然、起き上がることが出来なくなった。
 千秋の発案で買った畳ベッドの上に敷いた布団から、出られない……。隣のベッドで寝ていた千秋が起き出してトイレに向かうべく車椅子に乗り移る姿を、なんとなく目で追っていると……自分の目から涙が出ていることに気が付いた。
 その後、しばらくして彼女が寝室に戻ってきて着替え始めても、僕は動けなかった。本当は僕だってトイレに行きたいのだけれど、どれだけ膀胱が張って、痛んできても、布団から出るのが、怖い。部屋の明るさが怖い。あの、広々とした廊下に出るのが……怖い。
「え、稔……大丈夫?」
僕が起き出せずに震えていることに、千秋も気付いた。
「調子悪い?」
「……ごめん。今日、駄目かも……」
「風邪ひいた?」
「いや……たぶん違う……」

 久方ぶりに、例の『臆病風邪』に罹ってしまったようだ。(もちろん、それは僕の造語だ。)
 昼からは工場こうばのほうに出勤しなければならないと、解っているのに……尋常ではない倦怠感と共に、凄まじい恐怖心や不安感が襲ってきて、布団の中で丸くなっていないと、涙や、身体の震えが止まらない。例の幻聴が出始めて、更には全ての光が厭わしく、リビングで食事をするどころか、トイレに行くのさえ躊躇ためらわれる。……それでも、排泄をしないわけにはいかないから、泣きながらでも用を足しに行くしかない。
 それが終わったら、洗面所で不本意ながらも頓服を飲んで、多量にストックしてある洗濯済みのタオルを数枚 引っ掴み、布団の中へ逃げ帰る。持ってきたタオルを頭の下に敷いたり、目に被せたりして、どうにか、体調が落ち着くのを待ってみる。
 2つの勤務先には、千秋が電話連絡をしてくれた。

 その日は陽が沈む頃まで、僕は ほとんど布団の中に居た。何度か、仕事の合間に千秋が水筒やパンを持って様子を見に来てくれたけれど、僕は ほとんど何も言えなかった。彼女が話す言葉より、延々と頭の中で響く罵詈雑言や新常務の嗤い声のほうが よほど鮮烈で、それらに対抗して叫んでしまわないよう「黙って耐える」ので、精一杯だった。
 夏の、駅での一件以来、彼女は僕の「体温」をすごく気にする。今日も、彼女は部屋に来るたびに体温計を渡してきて、僕に体温を測らせた。
 一貫して平熱で、何より僕が「支離滅裂な妄想や、過去の記憶を叫ばない」ということに、彼女は安堵しているようだった。


 夜までのうちに、少しだけ眠れたような気がするけれど、あの現場で罵倒されながら働いている夢を見続けて、むしろ気疲れした。

 外が真っ暗になってから、ようやく頭の中が静かになってきて、廊下の照明やスマホ画面の光を見たくらいでは震えることもなくなった。僕は やっと起き出して、静まり返ったリビングで玉子粥を食べた。千秋が作ってくれた その粥は、レトルト粥がベースだとは思えないほど美味しかった。(テレビだけは「消してくれ」と、僕が頼んだ。)
 一日の仕事を終え、夕食も先に一人で済ませたという千秋は、至極あっさりと「工場こうばのほう、辞めたら良いんでない?」と言った。
「だって、もう『休業補償』なんて要らないしょ。先生が戻ってきたんだから……」
確かに、そうだ。
 しかし、僕は社長が気がかりでならなかった。僕は、千秋には明確な返事をせず「先生に電話してみる」とだけ伝えた。


 彼女が風呂に入っている間に、僕は寝室で先生に電話をかけた。
 すぐに出てくれた先生は、僕自身からの電話であることに、少し驚いている様子だった。不調が、もっと長引くと思われていたのかもしれない。
「千秋さんから連絡は受けてるよ。……うちのほうは、藤森ちゃんにお願いしたから大丈夫だよ。しっかり休みな」
「あの……僕、工場こうばのことで ご相談が……」
「……そっちの環境が、きついんだろ?」
「まぁ、はい……」
それは、認めざるを得ない。
「私から直ちゃんに『坂元くんを返してくれ』と言えば、誰も文句は言わないよ。君は、いつだって離脱できる。そもそも、君を あそこに送り込んだのは私だ」
「そういうことでは、ないのです……」
「何だ。まだ、頑張る気でいるのかい?」
 僕は、社長がいかに辛そうにしているかと、それが気がかりで抜けるに抜けられないという旨を、端的に話した。先生は、半ば呆れたように「とんだ優男だなぁ……」と言ってから「彼女には、あの『化けもの専務』が付いてるんだから、大丈夫だよ」と、不敵に笑った。
「前にも言ったろ?私は、あそこを1年ぽっちで辞めざるを得なかった。非常に残念だけれども。あそこで働き続けるには……手技や気骨よりも【体質】が物を言う。
 あの兄貴は、確かに『馬鹿』だ。しかし、あの環境と化学物質に耐えられる、強い身体を持っている。……それは、賞賛に値する点だ」
僕は まだ3ヵ月目だ。対して彼は、18歳から20年以上、ずっと現場に出続けている。確かに、体質的には「強い」のだろう。

 僕が電話口で黙り込んでいると、先生が「話は変わるのだけれども」と言って、まったく違う話をし始めた。
「君が、うちに来たばかりの頃……一緒に動物園へ行ったのを、憶えているかな?」
「はい、憶えてます」
「また、あんな感じで……君を連れて、行きたい所があるんだ。それには、車が必要でね……」
先生の話によると、車で片道 数時間の遠出になるという。
 僕は、体調が回復次第ご同行したいと答えた。
「わかった。君が元気になったら行こう。……会わせたい人が居るんだ」
「……わ、わかりました」
 電話を切った後、僕は2人分の布団を整え直した。

 先生が僕に「会わせたい人」とは、誰だろう?例の「義肢屋さん」だろうか……?


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【46.静閑の地】
https://note.com/mokkei4486/n/n507df67d10a5

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