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小説 「僕と先生の話」 29

29.「死活問題」

 これは、負傷した松尾くんが「退院できたら、先生に会いたい」という電話をしてきてから、無事に訪ねてくるまでの、約一ヵ月間のうちに起きた事である。


 電話を受けた翌日。先生は、彼が負傷した日の経緯について知るため、一人で あの工場に乗り込んだ。
 しかし、先生は以前なら「従業員の親族」として容易に現場内にまで立ち入ることができたけれど、実弟の善治が退職して「部外者」となった今、現場内に立ち入ることは許されなかった。また、今回の事故を機に「関係者以外 立入禁止」が徹底されることとなり、現職の従業員・就職希望者・取引先の関係者以外の人物は、たとえ親族であっても、事務所以外の建物に立ち入ることは禁止となった。
 先生は、当日の経緯について、事務所で社長に問い詰めた。しかし、社長は「負傷者のプライバシー」と「在籍中の人材への心理的な影響」を盾に、何も語らなかった。「傷病による休職中であった彼に、機械の操作を命じた人間がいるのではないか?」という先生の問いには、回答しなかった。
 重大な人身事故を起こした機械は「使用禁止」としていること、負傷した人材には然るべき補償をすることを、淡白に告げられただけだった。
 帰宅した先生は、僕にそれを語った後「夕食は要らない」と言って、行き先を告げずに出かけてしまった。


 後日、数ヵ月ぶりに岩下さんが訪ねてきた。先生が作画を進めていた次回作について確認するための訪問だったようだけれど、先生は「あの話は出さない」と言い切った。理由を尋ねた彼に対し、先生は「あれは、書くべきではない」としか言わなかった。
 彼は、先生の声色や表情から何かを察したようで、それ以上は何も訊かなかった。
 代案はあるのか、締切の日を変更すべきか等、淡々と事務的な質問を投げかけ、至極冷静に打合せとスケジュール調整を続けた。

 打合せの後、彼は以前のように和室で仮眠を取ってから、台所で夕食の準備を始めていた僕のもとへやってきた。「水分を摂りたい」という彼に、僕は普段の食事用の冷たいお茶を出した。
 立ったまま、それを飲み干した彼は「お訊きしたい事があるのですが……」と言った。
「何ですか?」
「あの和室に、衣類や漫画本の入ったダンボール箱が、いくつもあるのですが……善治さんのものですか?」
「あ、違いますよ。それは……」
僕は、岩下さんが来なかった数ヵ月の間に、先生のご友人が内耳の病気に罹って先生を頼ってきたこと、先生が彼の静養と通院に協力していたこと、その彼は現在 再び入院していることを、端的に話した。
「そうでしたか……。全く知りませんでした。早く、良くなるといいですね」
「荷物は、本人が『退院したら取りに来る』と言ってました。だから、当分は和室が狭くて……申し訳ないのですが」
「とんでもないです」
 僕は、滞在していた彼がこの家から逃走したことと、その理由について、この場で報告すべきかどうか……すごく迷っていた。
 僕の迷いなど知る由もない岩下さんは、お茶の おかわりを希望し、僕がそれを注ぐと「恐れ入ります」と言い残して、何の躊躇ためらいも無くリビングのこたつに入っていった。(つい先日、僕はリビングの茣蓙ござを蓄熱ラグに換え、食卓を こたつ仕様に変更していた。)
 そして、彼は、台所へ来る前に そこに置いたのであろう、例のタブレット端末を操作し始めた。
 僕が後から こたつに入ると、その端末でお子さん達の写真を見せてくれた。
 5歳の長男と2歳の長女は、本にあまり興味がなく、外で遊ぶのが大好きで、家の中でも走り回っているという。「この2人は、母親に似たようです」と、彼は少しだけ残念そうに言った。
 また、生後2ヵ月の次男は、とにかく「寝ない」子どもらしく、両親は手を焼いているそうだ。
「私は、自宅では なかなか熟睡できないので……子守りに必要なエネルギーを、ここで充填させていただくのです」
「どうぞどうぞ」
「……恐れ入ります」
彼は、目を閉じて恭しく礼をしてくれた。

「あの……まったく違う話になるんですが、いいですか?」
「はい、どうぞ」
心につかえているもの全てを話してしまいたくなるような、優しい返事だった。
「僕、先日……初めて、先生から幻聴の話を聴きました」
彼は、タブレット端末を機内モードにした。
「もう、岩下さんなら ご存知かとは思うんですが、先生は、熱が出ると……過去に言われた、ひどい言葉で頭が一杯になるそうで……そういう時は、実際に耳で聴いているはずの言葉と、頭の中の罵詈雑言が入り混じって、目の前にいる人に、ひどいことを言われているように感じてしまうと、仰ってました……」
「私も、そのように伺っております」
彼の冷静な語り口は変わらない。
「それで……例の、先週までこの家に居た、ご友人のことなんですが……彼も、何回か、幻聴で苦しんでいる状態の先生に、殴られています」
「怪我は、されましたか?」
「痣ができた程度です。しかし……」
僕は、彼が先生から逃れるために手ぶらで この家を飛び出した後、同僚を頼るべく勤務先に顔を出し、そこで事故に遭ったこと、かなりの重傷を負ったようであることを、できるだけ手短に、小さな声で話した。
 岩下さんは、腕を組み、ただ黙って僕の話を聴いていた。
「そのことで、先生は……ずっと、ご自分を責めているようなのです。『とんでもないことをしてしまった』と、泣きながら悔やんで……お仕事が、手につかないようです」
彼は、腕を組んだまま、小さく唸った。
「確かに……ご友人が『この家を飛び出したこと』と、先生の防衛反応には、因果関係があると言うことが出来ますが……彼が『勤務先で機械を操作したこと』は、先生の言動とは無関係であるはずです」
「……僕も、そう思います」
「しかし……先生としては、責任を感じられる点なのでしょう」
彼は、かなり伸びてきた顎ひげをいじりながら、しばらく考え込んでいた。
「その ご友人が、無事に退院されるまで……先生には、絵本だけでもお休みしていただくのが、最良かとは思います」
確かに、そうだろう。しかし……
「あの……。原稿の締切って、そんな簡単に動かせるものなんですか?」
「絵本ですから、漫画雑誌ほどシビアではありませんし……私が担当する作家さんに関しては、何よりも体調を最優先にして頂きたいのです。……こちらの編集長なんて、怒らせておけばいいのです」
「は、はぁ……」
 僕が返事に困っていると、先生が1階から上がってきた。
「また、編集長と喧嘩したのかい?」
「これから、するのです」
先生は、どこか得意げに そう答えた岩下さんに対し、クスクス笑いながら「頼もしいねぇ」と言って、こたつに入った。
「先生。僕、さっき岩下さんの子どもの写真を見せてもらいました」
「お!いいねぇ。私も見たいな」
 先生が、写真を見せてもらいながら「可愛いなぁ!」とか「大きくなったねぇ!」と言って笑っているところを見届けたら、僕は夕食の準備を再開するため、台所に戻った。

 3人で夕食を摂る間、岩下さんは子どもの話しかしなかった。次男は毎晩泣いてばかりで眠らず、更には長女が いわゆる「イヤイヤ期」で、母親はすっかり疲弊していて、祖父母の手を借りてはいるけれど、やんちゃな長男は幼稚園で何かと問題を起こし、両親はその対応にも追われ、家族は非常に困っているといい、それでも休むわけにはいかない彼は、日々の睡眠時間確保のために「毎日ここで仮眠を取りながら仕事をしたい」とまで言う始末であった。
 僕は、それを「先生が心配だから」という、本当の【主たる理由】を言わないための口実ではないかと思った。
 先生は、至って真面目に「それは死活問題だね」と言い、また「本当に毎日来てくれても、私は構わないよ」と答えた。


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【30. 曇天】
https://note.com/mokkei4486/n/nff8ca6d566ef

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