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小説 「吉岡奇譚」 19

19.小さな心的外傷

 翌朝。私が起きた時、夫は布団から出られなかった。私は、そのまま寝かせてやることにした。
「午後から、悟くん達が来るからね。それまでには起きていてくれよ」
「んー……」

 結局、彼らが訪ねてきても、夫は寝室に居た。朝食を摂った後、「頭が痛い」と言って、再び横になってしまったのだ。
 岩くんに それを伝えると、彼は至って穏やかに「寝かせてあげてください」と応えた。

 前日と同じように、岩くんが1階で亡くなった作家の遺稿に目を通している間、私達3人はリビングで読書会をする。
 悟くんは、早くも藤森ちゃんに興味を示している気がする。恐竜好きな彼女とは波長が合うのか、あるいは昨日の唐揚げによる効果か……それは解らないが、少なくとも坂元くんよりは、彼女に強い関心を抱いている。
 事務机の下から抜け出して、彼女が読んでいる本を覗きに行ったり、空のコップを渡して お茶の おかわりを要求したり、坂元くんに対しては決して しない事をする。
(単純に『若いお姉ちゃん』が好きなのだろうか……?)
いや、そんなことはない。彼は、どの保育士にも心を開かず、退園させられてばかりだ。 
 激しい癇癪かんしゃくで、保育士や他の園児に小さな怪我をさせたり、設備や備品を壊したりしてしまうのだ。
 彼が藤森ちゃんには心を許していることを、岩くんが知ったら、きっと喜ぶだろう。

 ふと気になって、寝室まで夫の様子を見に行くと、彼は まだ布団の中で仰向けになったままだった。上半身は布団から出ていて、両腕をだらりと広げている。
 私は、部屋の入り口に立ったまま、声をかけた。
「大丈夫か?……水分くらいは摂りなよ」
「うん……」
彼は、ずっと天井を見ている。
「食欲はあるかい?」
「あんまり……」
「少なめにしてもらうかい?」
「そうだな……」
 明らかに元気が無いので、私は彼の眼が見える位置にまで歩み寄った。
 眼振は無い。彼は、思いのほか綺麗な眼で、こちらを見た。
「大丈夫かい?」
「連勤で参ってるだけだから。大丈夫だよ……」

 私は2階に戻り、藤森ちゃんに「悠介は食欲が無いらしい」と伝えた。彼女は手話で「わかりました」と応えた。
 悟くんは、大人しく彼女の近くに座って、彼女が読んでいた本を借りて眺めている。
 私も、すぐ近くに腰を降ろした。
「悟くんは、このお姉ちゃんが好きかい?」
彼は応えなかった。黙々とページをめくり、挿絵のあるページを探しているかのようだ。

 やがて、夫が水分を摂りに下りてきた。ぼんやりとした様子で、まるで曇りの日の岩くんである。
 彼は、藤森ちゃんに出してもらった冷たい茶をちびちび飲みながら、ページをめくる悟くんの姿を眺めている。
 悟くんは、私の夫が来たことに気付いていないかもしれない。


 悟くんのことを2人に任せ、私は、岩くんが居る応接室に下りた。
 彼は、今日も真っ赤な眼をしてパソコンに向かっている。
「どうだい?」
「あ、先生……。おかげさまで、粗方 終わりました」
「良かった」
 私は、昨日と同じように彼の隣に座り、奥様の体調について尋ねた。
「千尋さん、風邪でもひいたかい?」
「…………妻は今、悟との関係について、悩んでいるのです」
「そういうことかい……」
彼は、ずっとパソコンを操作している。
「あまり大きな声では言えないのですが……妻は、パニックになった悟に噛みつかれた拍子に、思わず、頭を叩いてしまったことがあって……それ以来、あいつは母親に近寄ろうとしません」
「……ちょっとした、トラウマなのだろうね」
突発的に叩いてしまう心理も、解らなくはないが。
「妻としては反省していますし、何度も謝ったのですが……残念ながら、悟の心には響かないようで……」
「自閉傾向のある子は、ネガティブな記憶が、なかなか消えないからね……」
「私の子ですから……。怖い思いをしたら、なかなか忘れられないのでしょう」
 13歳で事故に遭った彼は、18歳頃まではフラッシュバックと寝小便に悩まされたと聴いている。事故後しばらくは、睡眠中に「崖から落ちる夢」を見るたびに、漏らしてしまったのだという。脊髄が傷ついた影響もあるのだろう。(フラッシュバックに有効な治療薬が開発されたのは、ごく最近のことである。)
「時間をかけるしか、ないのだろうね……」
「そのようです」

 彼がマウスを動かし、カチカチとクリックする音が、静かな室内に響く。
「ところで、坂元さんは、また休職されているのですか?」
「そうなんだよ……今回は、長引きそうだ」
「……そんなに、状態が悪いのですか?」
「彼も……ついに、幻覚を見たり、幻聴を聴いたりするようになってしまったと言うから……私達みたいに拗らせてしまわないように、早いうちに ゆっくり休ませてやりたかったんだ。……しかし、いつ戻ってくるのか、まるで見当がつかない」
「何か……重症化の要因となるような事が、起きたのですか?」
「悠介の身に起きたようなことを……彼も、若い頃に、されているんだ」
「悠介さんの?…………例の、盗撮や誹謗中傷のことでしょうか?」
「そうだよ。……あれをきっかけに、自分が被害に遭った時のことが、頭から離れなくなったと言って……塞ぎ込んでいたんだ。今は、信州の湯治場に居るけれども」
「……インターネットのことなど忘れて、大自然の中で、ゆっくり休んでいただきたいですね。
 悠介さんのほうは、お変わりないですか?」
「うーむ。強いて言えば、すごく痩せたし、白髪が増えて……抜け毛も増えたな。
 耳と、精神面は相変わらずだねぇ。相変わらず、癇癪かんしゃくばかりで……悟くんと、大して変わらないよ」
「被害に遭われた当事者ですから。無理もないでしょう……」

 すると、上の階から、地団駄を踏む子どもの足音らしきものが聞こえ始めた。硬い物が床に落ちるような音もする。
「おやおや。何かあったかな?」
「悟……」
 岩くんがすぐさま2階に上がり、私も後からついていく。
 リビングで、悟くんが両耳を塞いで泣き叫んでいる。
「みない!みない!」
その場で くるくる回ったり、しゃがんだり、立ったり、落ち着かない。まるで仔犬か猿のような声をあげながら、頭や耳周りを、掻きむしり始める。
 普段から、私が「悟くんの体には、無闇に触らないように」と教えているため、夫は離れた場所から様子を伺っている。そして、彼が藤森ちゃんにも「近寄るな」と教えたのだろう。
 悟くんが藤森ちゃんから借りていたはずの本が、床に投げ捨てられている。岩くんが、それを拾い上げてから、息子の近くにしゃがむ。
「悟。どうした?」
「ぃや!!……かーやん!きらい!!」
「母やんは、ここには居ないぞ」
「みない!……みない!!」
私は、岩くんにそっと歩み寄り、本を受け取る。彼が「見ない!」と騒いでいるのは、その本であるような気がしたので、見えない所に隠してやろうと考えた。
 岩くんも、無闇に息子に触らない。少し離れた場所から、落ち着くのを待っている。
「何か、こいつが驚くような事がありましたか?」
岩くんが、夫に尋ねる。
「いや……正直、心当たりが無くて……」
「独りで突然、騒ぎ出しましたか?」
「はい……」
「よくあることです」
 岩くんは、しゃがんでいた場所に、腰を降ろした。
「悟。本は片付けたぞ。……難しい本だったか?」
「ばか!きらい!……さとる、ばか!!」
「……誰が、そんな ひどい事を言ったんだ」
「みない!!」
「もう、しまったよ」
悟くんは立ったまま、うーうー唸りながら自分の髪を掴んでいる。
「あぁ。……そろそろ、散髪しないとなぁ」
彼は、掴めるほどの長さがあると、髪をむしってしまう。
「明日にでも、切るか」
「んー……」
気持ちを汲み取ってもらえたためか、だんだん、落ち着いてきたようだ。
 私は、彼の気が変わるような提案をした。
「私のポテチで良かったら、一緒に食べるかい?」
「もらうか?」
彼は、すぐには応えなかったが、私が袋を見せた瞬間に「たべる」と言った。
「よし。食べよう」
 食卓の上で袋を開けて、破って広げる。悟くんは、素直に黙々と食べている。
「だいぶ、意思表示が出来るようになったね」
私がそう言うと、岩くんは ため息で応えた。今は素直に喜べない心境なのだろう。
「君も食べるかい?」
「……いただきます」
 その後、夫も食べに来た。
「食欲が無いんじゃなかったのか」
「いや、見たら食いたくなった……」
「晩は、普通に食べるのかい?」
「少なめでいいかなぁ……」
 藤森ちゃんは、来なかった。黙々と自分の仕事に取り掛かった。


 無事に親子が帰り、夕食後には藤森ちゃんが退勤し、私はアトリエで作画の準備を始めた。今は連日「ペン入れ」が続いている段階だ。水彩絵の具での彩色に耐えられる油性インクで、主線を決める。
 毎回、手が真っ黒になる。風呂に入っても、完全には落ちない。
 日中に飽きるほど寝た夫は、今日は遅くまで起きている気がする。彼にも、引退の話をしなければならない。
 作画中、アトリエのドアは、可能な限り開け放っておくことにしている。閉めたほうが作業に集中できるのだが、過剰な集中は健忘のもとである。
 ドアが全開でも、夫やハウスキーパー達は「出版前の原稿を、編集者以外の人間に見せてはいけない」という決まりを知っているので、アトリエの中にまで入ってくることは無い。
 私が ひたすら紙に向かっていると、内線が鳴った。(この機械で、インターホンへの応対と、2階との通話が出来る。)ボタンを押して応対する。
「諒ちゃーん。風呂どうするー?」
「先に入ってくれ。まだまだ描きたいから」
「あいよー」
 夫との短い通話を終えたら、再び作業に戻る。岩くんに、散々「良くない」と言われ続けた姿勢で、黙々と描く。
 椅子の上に胡座をかいて、机に左肘を着き、背中を丸め、目を凝らして……確かに、非常に「良くない」だろう。しかし、私は この姿勢でないと描けないのだ。

 夫が風呂から上がってきてテレビを観始めたのが、音で判る。
 作業を切り上げて、私も風呂に入ることにした。

 風呂から上がったら、まだテレビを観ている夫に「話がある」と言って、隣に座った。
「どうした?」
「私は……今書いている話で、絵本は最後にしようと思うんだ」
「マジか。……え、なんで?」
「あまりにも腰が痛くてさ……立って書けるものだけにしたいんだ」
岩くんの時ほど丁寧に語る気は、さらさら無い。
「他の本は、まだまだ書くってことか?」
「そうだよ」
「なら、そんなに生活は変わんねえか……」
「おそらくね。……むしろ、健忘が減って、良くなるかもしれない」
「……あれ、絵が原因なのか?」
「絵というか……『独りで、狭い部屋に長時間 篭ること』だろうね」
「…………最後だからって、張り切って、無茶するなよ」
「気を付けるよ」

 観ていた番組が終わったらしく、夫がテレビを消した。
「今日、悟ちん 久しぶりにキレてたな……結局、何だったんだろ?」
「お母さんに頭を叩かれた時の記憶が、頭から離れないみたいだよ」
「……『思い出し激怒』か? 諒ちゃんみたいだな」
そう言って、へらへら笑いだした。
 「思い出し笑い」に似た現象としての『思い出し激怒』というのが、我が家における「フラッシュバックに伴う激昂」の通称である。私の それは、大変 激しい。
「ヒトとは本来、そういう生き物だよ。おまえだって、過去のことでキレて、癇癪かんしゃくを起こすだろ……」
「……まぁね?」
またしても、へらへら笑って誤魔化し始める。
「……そういや、稀一は元気かな?」
「元気だと思うよ。たまに手紙が来るし……何回か、悠介が居ない時間帯に、家に来たよ」
「マジか」
「岩くんが、彼のことを『小さな善治』なんて言っていたな」
「……わかる!!」
車の中で それを聴いた時の私と同じように、やはり彼も笑い転げている。

 その後も、彼とは遅くまで「子ども」の話で盛り上がった。
 今後、私達夫婦に子どもが生まれることは、ありえない。それでも、お互いに決して児童は嫌いではない。単なる空想の話として「養子を取ろうか?」という話題が出てくる時さえある。
 ただ、私達は、2人とも家庭内における虐待の被害者でもある。自分が「親」という立場になることに対する、抵抗感や嫌悪感は拭いきれない。養子の話が出ると、いつも「親と同じ事をしてしまいそう」という恐れが、付き纏う。だから「空想」で終わるのだ。
 少なくとも、私は「母親」になるべきではない。我が子とは無関係な『思い出し激怒』に伴って、噛まれた拍子に頭を叩くよりも、ずっと酷いことを、してしまうだろう。


次のエピソード
【20.避難】
https://note.com/mokkei4486/n/n679116fe2357

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