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小説 「吉岡奇譚」 1

1.小さな友人

 私には幾つかの日課がある。夫を仕事に送り出すこと、朝の散歩、読書、昼食後の午睡、我が家で働くハウスキーパーに礼を言うこと、そして、毎晩必ず風呂に入ること。
 仕事の進み具合は気分と体調に大きく依存するので、私は健康維持のためには欠かせない習慣を特に大切にしている。

 私は、屋外で本を読むのが大変好きである。天気の良い日は、公園のベンチに腰かけて、若い頃に買い集めた小説や哲学書を読みふける。私にとって、良質な本を読むことは『人との出逢い』であり『知らない世界への旅』である。また、よく知っている本を読み返すことは『懐かしい人との邂逅』であり『見知った場所に帰ること』である。
 私は毎朝、着る服を選ぶように、携行する本を選ぶのだ。

 その日も、私は本を携えて散歩をしていた。自宅から程近い公園である。
 眩しすぎず、暑すぎない程度の日向を見つけ、私はそこに陣取る。
 脚を組んで、懐かしい小説を読んでいると、足元にボールが転がってきた。私の足には当たらなかったが、すぐ近くで止まった。
 私は、真正面に人の気配を感じ、本から視線を上げた。
 小学校高学年と思しき少年が、こちらを見ている。
「君のボールかい?」
「うん」
少年は頷いた。
 私は、本を閉じてベンチの座面に置き、拾い上げたボールを少年の手元に放り投げた。少年は、うまく それをキャッチした。
「ありがとう」
「君、学校はどうしたんだい?」
今は平日の午前である。
「行ってない」
「不登校なのかい?」
「せやなぁ」
「……学校に行かないからといって、家に閉じ篭もるわけではないんだね。それは、良いことだ」
私は、不登校という選択を否定はしない。私自身、学齢期は常に【苦登校】であった。私は、保護者に恵まれなかった。学校では児童・生徒だけではなく、教職員からも虐めを受けたが、私の「学校に行きたくない」という訴えを聴き入れてくれる保護者達ではなかった。また、当時の私には、大人の言いつけに背いて逃げ出すだけの度胸が無かった。ただひたすら、眠れないことや胃の痛みに耐えていた。
 彼の勇気ある決断と堂々たる行動に、私は羨望すら感じていた。
「僕、家無いねん」
「まさか……。どこか、施設で暮らしているのかい?」
「僕、ホームレスやで」
「それにしては……随分と身なりが綺麗じゃないか」
「じいちゃんの家と、姉ちゃんの家と、兄ちゃんの家で、うろうろしてるねん。決まった家が無いねん」
「……複雑なご家庭だねぇ」
その複雑な家庭環境のために、通学どころではないのかもしれない。
 少年は、ボールを持ったまま私の隣に座った。
「休憩かい?」
「うん」
独りでボールを追いかけ回すことに飽きたのかもしれない。
「おばちゃん、男の人みたいな格好してるけど……おばちゃんやろ?」
「そうだよ」
「彼女か奥さん おる?」
この街では、同性パートナーシップが公的に認められている。
「居ないよ。私には夫が居るからね」
「おばちゃん、主婦?」
「私は作家だよ。家で本を書くんだ」
「それ、おばちゃんが書いたん?」
「これは違うよ」
「ふーん」

 私は、読書をやめた。
「君は、よく此処で遊んでいるのかい?」
「せやで」
「朝から?」
「日によって違うかな」
「私は、ほとんど毎朝来るよ。これからも、会えるかもしれないね。……君、名前は?」
「きいち」
「どういう字を書くんだい?」
「『まれ』に、漢数字の『いち』……」
「稀一くんか。よろしくね」
「おばちゃんは?」
「私は……『吉岡よしおか りょう』というんだ」
「……男の人みたいな名前やね」
「よく言われる」
おそらく本名を答えてくれたであろう彼に、私はペンネームを教えた。

 私が少年と会話する姿を、公園に居合わせた人々が怪訝そうに見ている気がする。
「おばちゃんが僕を誘拐したと思われてるんちゃう?」
彼も、周囲から見られていることに気付いているようだ。
「それは困るなぁ」
「何か言われたら『親戚や』って嘘吐こう」
「嘘は良くない。私は、正直に『友達だ』と答えるよ」
「僕、友達……?」
「私は、そのつもりでいる」
彼は、足をぶらぶらさせるだけで、何も言わなかった。

 私は、ふと時刻が気になって腕時計を見た。
「おっと!そろそろ帰らないと」
「忙しい?」
「家に人が来るんだ」
「お客さん?」
「私が雇っている人だよ。ごはんを作ってくれたり、家の掃除をしてくれたりするんだ」
「おばちゃん、お金持ちやなぁ」
「どうだろうね」
彼を雇う人件費を捻出しているのは、私ではなく弟だ。主として生活費を稼いでいるのは夫であるし、私の稼ぎなど……雀の涙である。
「稀一くん。明日も会えたら、嬉しいよ」
「僕も嬉しい」


 以後、私はその公園で彼に会うことが出来たら、自分の著書を読ませてやったり、一緒にボール遊びをしたりするようになった。駄菓子やジュースを持参して、彼にあげたこともある。
 彼は、ほとんどいつも同じような服を着ている。たまに、獣のような匂いがする。
 昨夜は どの家で寝たとか、風呂に入ったかとか、何を食べたとか、こちらが訊くまでもなく報告してくれるようになった。
 彼の証言に基づく私の推測が正しければ、彼の言う「じいちゃん」は本当の祖父ではないし、いわゆるホームレスである可能性が高い。「姉ちゃん」と「兄ちゃん」も実の兄姉ではなく、また、彼らは日本人ではないようだ。
(彼の親権者は、どこに居る……?)
 私は、彼は然るべき福祉に繋ぐ必要のある子だと感じた。しかし、子ども自身による証言だけを鵜呑みにするわけにはいかない。実態を確認してみたい。
「稀一くん。私は、君のおじいさんに会ってみたいのだけれども……良いかい?」
「訊いてみる」

 後日、私はハウスキーパーに留守を任せ、少年の案内で「じいちゃんの家」を訪ねた。彼が「じいちゃん」と慕う老人は、少なくともホームレスではなかったが、今どき珍しい風呂無しアパートの一室で、大量のガラクタに埋もれて暮らしていた。腐敗するようなゴミではないため、異臭はしないが……古びた家具や玩具、明らかに家主のものではない衣類、綺麗に洗ったガラス瓶などが、一部は箱に詰められて、居室内に所狭しと並んでいる。
 老人は、いかにも安っぽい湯飲みで茶を出してくれた。カラオケスナックから持ち帰ったのだという小袋入りの菓子が、食卓の上に散らばっている。「よかったら」と薦められ、ひとつを頂くことにした。
 少年は、何袋も大量に食べている。空腹だったのだろう。
 私は、絵本作家としての名刺を、老人に手渡した。彼は苗字だけを名乗った。
「物書きの先生が、そんな小僧の遊び相手とはねぇ」
「私は絵本作家ですから。児童と遊ぶことも、大切にしています」
「熱心な方ですな」
「失礼ですが、貴方は稀一くんとどのようなご関係ですか?」
「何だろうなぁ……『公園で知り合った友達』か?」
「せやな」
「俺は、公園清掃の仕事をしてるんだ。そこで知り合った。そうしたら、いつの間にか、この小僧が家までつけて来るようになって……こうして、入り浸っていやがる。家が相当貧しいみたいだから、適当に何か食わせたり、俺が拾ってきた服や鞄を分けてやったりしてる」
「拾ってきた……?」
「馬鹿でかい公園の『忘れ物』だよ。ほとんどの奴は取りに来ない。保存期間を過ぎたら、ゴミにしかならない。だから……売れそうなやつは、貰って帰ってくるんだ」
違法性の有無は、私には判断しかねる。
「稀一くんの親御さんには、お会いしたことはありますか?」
「無い」
「彼が何処に住んでいるか、ご存知ですか?」
「知らん」
「彼は、自分を『ホームレス』だと言うのです」
「冗談だろ?」
老人が少年に尋ねる。
「ほんまやで」
「ほんま!?いやいや……。姉さんが居るんだろ?普段は、姉さんと暮らしてるんだろ?」
「ほんまのお姉ちゃん違う」
たとえ血縁者ではなくとも「戸籍上の姉」であることを願いたいところだが、私の推測が正しければ、本当に「赤の他人」である確率が高い。
 老人は少なくとも誘拐犯ではないし、単に「自宅にやってくる客人を もてなしている」だけである。その行為に違法性は無い。

 私は、少年に頼んで、次は「姉ちゃんの家」を訪ねることにした。了承の返事をもらうまでに日数がかかったけれど、少年が口にした駅名は、かつて私の弟が住んでいた地域の名であった。女性が一人で暮らすには、些か危険な地域である。
 驚くべきことに「姉ちゃんの家」は、過去に弟が住んでいたアパートの中にあった。そのアパートは現在、郵便受けを見る限り、日本人名を掲げる部屋は皆無である。
 少年が「姉ちゃん」と呼んで慕う女性は、中国からの留学生であった。
「ここに僕の貯金箱があるねん」
少年が最も高頻度で寝泊まりするというこの家には、少年の所持金や衣類が保管されているという。
 出迎えてくれた彼女は流暢な日本語を話し、喜ばしいことに私の著書を読んだことがあると言っていた。
「稀一くんとは、何処で知り合いましたか?」
「公園です」
(またか……)
彼女から詳しい経緯を聴くうちに、驚くべき情報を得た。
 どうやら、この少年には【戸籍】が無いらしいのだ。彼は自分を「おらんことになってる」と言い、生まれてから一度も保育園や学校に行ったことがないし、彼を育ててきた自称「祖母」は、1年前に亡くなっていて、今の彼に「保護者」は居ないのだという。
 彼女は「中国なら よくあること」として、至って冷静である。経済的にも ゆとりのある彼女は、彼が飢えたり凍えたりして死んでしまわないよう、最低限の支援をしているようだ。
「役所や警察には、届けましたか?」
「本人が嫌がるから……言ってません」
「嫌がるって言ったって……!」
無戸籍であることが事実なら、一日も早く児童福祉に繋ぎ、彼が戸籍を取得できるよう、支援機関に動いてもらわなければならない。このままでは、彼は義務教育も医療も受けられない。将来の就労にも、大いに支障を来たす。
 留学生の彼女は、いずれ自国に帰る。その後のことを考えると、すぐに彼女と引き離してでも、彼を児童福祉に繋がなければならない。
(まずは警察に連れて行かなければ……!)
 また、私としては、彼女が、その善意に基づく行為によって「誘拐犯」扱いされることも避けたい。

 彼女と同じアパートに住むベトナム人の「兄ちゃん」も、いずれは自国に帰ってしまう立場であるし、異国の役所や警察署でそこまで複雑な話が出来るほどの語学力や知識の持ち主ではなかった。
 彼は、先日会った「じいちゃん」同様、ただ「しょっちゅう遊びに来る子どもの相手をして、食事を摂らせていた」だけだ。彼も、少年の身の上を知らなかった。


 私は、夫の了承を得て少年を自宅に連れ帰り、惣菜と冷凍食品ばかりではあるが夕食を与えた。(こんな時に限って、ハウスキーパーが連休を取っている。)
 少年が一人で風呂に入っている間に、私は夫に少年の身の上を説明した。夫は「事実確認を依頼するため、彼を明日 警察署に連れて行きたい」という私の発案を受け入れてくれた。
 普段なら私達は3階の寝室で就寝するが、その夜は1階の和室に布団を並べ、3人で川の字に並んで寝ることにした。
 全員が入浴と着替えを終え、いざ就寝となった頃、少年は夫に左腕が短い理由を訊いた。夫は、何故か「外国で狼に食べられた」と嘘を吐いた。少年は、それを疑わなかった。私は、あえて訂正しなかった。
 夫は以前、私の友人の息子に同じことを訊かれた時も「初めから無いんだ」と、やはり嘘を教えていた。

 左腕の一部を欠損している夫は、勤務先のロッカーに仕事用の高価な義手を何本も保管していて、作業内容に応じて使い分けている。時折、それらを自宅に持ち帰ってくるので、私が掃除して油を差している。夫の勤務先は町工場である。素材の加工に伴って発生する粉塵が隙間に詰まり、義手は すぐに「関節」が動かなくなる。私は、義肢に関する知識は皆無に等しかったが、おかげさまで日々のメンテナンスくらいは出来るようになった。
 今の夫の勤務先で、私も勤務していたことがある。基本的な工具の使い方や、はんだ付けくらいなら、今でも体が覚えている。

 夫が腕を失ったのは、私の所為と言っても過言ではない。あの日、私が彼を この家から追い出したりしなければ、彼が事故に遭うことなど無かったかもしれない。
 夫は、事故と私の言動について「無関係だ」「気にするな」と言い続けてくれるが、私は、今でも罪業感に苛まれる時がある。
 夫が子ども達に嘘ばかり答えるのは、質問をした彼らに対してよりも、側で聴いている私への気遣いのように思えてならない。


 私は、布団の中で2人の寝息を聴きながら、なかなか入眠できずにいた。
 警察署に赴いたら、私が「誘拐犯」ではないかと疑われてしまうような気がして、警察官に何を話すべきか、考えるのをやめられなかった。


次のエピソード
【2.仕事仲間たち】
https://note.com/mokkei4486/n/nbeaab0a29f11

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