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小説 「僕と先生の話」 23

23.倒れた忠犬

 喫煙所に行くと、先生が室内の椅子に脚を組んで座り、何本目か分からない煙草を吸いながら、見慣れないガラケーを操作していた。僕に気付くと、画面から視線を上げて、若手社員のような口ぶりで「お疲れ様でーす」と挨拶してくれた。僕は、動きだけで応えた。
「君は、吸わないんじゃなかったっけ?」
「隠れるために、来ました……」
「なるほど」
再び画面に目を落としながら、社長の車を見つけた時と同じように、不敵な笑みを浮かべる先生。
「先生、ガラケー持ってましたっけ?」
「この会社のものだよ」
「えっ……」
「部長さんの人脈について調べているんだ」
(部外者が、役職者の仕事用ケータイを無断で見ているのか……!!?)
「課長からの依頼でね」
「……それ、善治さんのことですよね?」
「まぁね。……いずれにせよ、素人がケータイの履歴を見たくらいで、行き先に見当はつかないよ。ご家族から警察に依頼するしかない」
「僕も、そう思います」
 今はただ、部長の無事を祈る。

 先生は、ガラケーを閉じて椅子に置き、カーゴパンツのサイドポケットから取り出した ご自分のスマートフォンに何かを入力したら、すぐに それをしまった。
 煙草の火を消したら、再びガラケーを手に取り、開いて時間を確認した。
「今日は社長が遅くまで頑張っているから、みんな帰りづらいだろうけれども……どれだけ遅くとも、全員が22時までには退勤しなければならないという規定があるから……21時頃には、片付けや戸締りが始まると思うよ」
退勤時間に関する決まりは、僕が働いていた頃から変わっていないようだ。
 終電を逃す心配が無いのはありがたいけれど「制限時間内に、全てを終わらせなければならない」のが、辛かった……。
「せっかく車があるから、弟を乗せて帰ってやりたいのだけれども……君は大丈夫かい?先に、駅まで送ろうか?」
「僕は大丈夫です。
 ……最後まで、ご同行します」
「君も、なかなかの忠義者だね」
「恐れ入ります」

 先生は、再び黙々とガラケーを調べていた。僕は、黙って明日の献立について考えていた。
 僕にはまったく分からなかったのだけれど、耳聡い先生が、ふと「社長のマシンが止まったね」と呟き、機械場の様子を「見てくる」と言って、喫煙所から出ていった。
 僕は、先生が社長と込み入った話をするような気がして、ついて行かなかった。

 喫煙所を出て、できるだけ人目につかない場所を選んで、歩き回り続けた。申し訳程度に、明らかな異物やゴミは捨て、人の動線上にある物品は除け、定位置ではない場所に放置されている工具は独断で戻した。
 制限時間と自分の担当業務のことで頭が一杯の従業員達は、好き勝手 歩き回る僕に見向きもしない。絡まれることはなかった。
 時が経つごとに、一人、また一人と、退勤していく。僕にまで、在籍中と同じように挨拶をしてくれる人もいた。

 機械類の電源が次々に落とされ、建物の中が静かになっていくのが、自分でも分かるくらいになった頃、僕は敷地内に閉じ込められるのを恐れて、まだ人が居そうな場所に向かった。
 機械場の中を通って、屋外にある駐車場に向かう途中で「おい!おい!」と繰り返す、善治の声がした。
 近寄ってみると、ほんの数時間前には癇癪かんしゃくを起こして暴れ回っていた彼が、汚れた作業着のまま、現場の冷たい床の上で寝転がって呻いていた。
 着替え終わっている善治は、彼の肩や背中を叩いて起き上がるよう促すけれど、彼は「無理」とか「やめろ」と言いながら、のたうち回るばかりで、頭を持ち上げることすら出来ずにいる。かつての僕がそうであったように、目が回って動けないのではないだろうか……。
 僕が2人の側まで行くと、善治に「俺は戸締りをするから、こいつを外まで運べ」と、身振りで指示された気がした。
 僕は「はい!」と言いながら、目で判るように敬礼をしてみせた。それを確認した善治は立ち去った。

「大丈夫ですか?……立てますか?」
 彼の名前は忘れてしまったし、今となっては何の接点もない「赤の他人」だから、駅かどこかで倒れている見知らぬ人に声をかけるつもりで、側に膝を着いて、問いかけた。
「早く、帰れ……!」
彼は、退勤時間に関する規定のことで、頭が一杯なのだろう。誰が来ても、同じことを言っただろう。
「僕は、この会社の従業員ではありません」
「え……!?」
彼は、困惑して黙り込んだ。横になったまま、僕の顔を見上げている。
 あれだけ笑いものにしていたくせに、僕のことなど、もう憶えていないのかもしれない。
「……先生の会社の人、ですか?」
「はい」
嘘を吐いたに等しいけれど、今、細かい事情を彼に話す理由は無い。
 僕が外部の人間であることを知り、理性的に振る舞う必要性を感じたのか、彼はふらつきながらも起き上がった。しかし、頭の向きが変わったことで、激しい目眩に襲われたのだろう。座った状態で頭を抱えたまま、何も出来ずにいる。
「更衣室まで、肩を貸しましょうか?」
しばらく黙り込んだ後、力無く「すいません……」とだけ応えた彼の腕を、僕は半ば独断で自分の肩にかけた。
 僕が支えているとはいえ、彼は、どうにか立ち上がって歩くことが出来た。

 入った時とは違う出口から、駐車場にまで出た時、既に社長の車は無かった。
 彼は、事務所にたどり着いたら、そこからは「一人で行きます」と言ったけれど、僕は2階にある更衣室の前まで同行した。独りきりにしたら、彼が階段から転がり落ちるような気がしてならなかった。

 部長がしてくれたのと同じように、僕は階段の下で彼が戻ってくるのを待った。
 やがて、善治と先生が、事務所の様子を見に来た。彼が2階で着替えていることを告げると、先生は「彼も乗せてあげよう」と言った。

 3人で待っていたけれど、彼は一向に降りてこない。先生は「見てくる」と言って、何の躊躇ためらいもなく一人で2階に上がった。
 もし、彼がまた倒れていたら、支えるか、運ぶか、してやらなければならない。それに気付いた僕は、先生の後を追った。善治は、事務所の椅子から動かなかった。

 彼は、着替えた後にも嘔吐したらしい。先生は、何食わぬ顔で男子トイレに居て、ご自分のために自販機で買ったはずの水を、床に座り込んだままの彼に手渡していた。
「そんな状態で、自転車に乗るべきではないよ」
彼は、返事をすることすら ままならない状態だった。


 善治が彼の自転車を先生の車に積み込み、僕が運転席に座る。先生は、今にも眠ってしまいそうな彼と並んで後部座席に座り、家の場所を訊いた。
 善治が助手席に座ってシートベルトをしたのを確認してから、僕は車を発進させた。
 僕の後ろに座った彼は、松尾という名前だった。先生は、彼の名を知っていた。
 道中、松尾くんは、かなり思い詰めた様子で、部長が退職する前後の経緯と、今は自分が部長の代役を務めていることを先生に語った。先生は、感情が高ぶって また汚い言葉を叫びそうになる彼を、落ち着いた声で宥めながら、それでも「部長は無責任だ」という主張は否定せず、長い話に耳を傾けていた。
 僕と善治は、一言も発さなかった。


 松尾くんと善治を家まで送り届けてから、僕は先生をご自宅まで送ろうとしたけれど、先生は「運転を代わる」「君を家まで送る」と譲らなかった。僕は、車の持ち主の意向に沿うことにした。
 僕が、運転する先生の隣に座るのは、初めてだ。
「君も、松尾くんとは面識があるんだろ?」
「……もう、向こうは忘れているみたいです」
「まぁ、あれだけ人材の入れ替わりが激しければ……無理もないか」
「……彼、先生のこと、よく知ってましたね」
「弟が入社する前からの付き合いだからね。……初めて会ったのは、彼女の葬儀の時かな」
善治の奥さんのことだろう。
「社長と一緒に来たんだ。
 部長さんは……来なかった」
部長は、現場を離れることができなかったのだろう。
「あの社長には子どもがいないから、彼が『後継者候補』なんだよ。何かと連れ回されて、あれこれ教え込まれて……しょっちゅう、頭がパンクしてるよ。可哀想に……」
 もし僕が経営者なら、あれほど下品かつ幼稚な奴を後継者には選ばない。とはいえ、あんな状態になるまで頑張って、現場責任者の代役を務めているというのは、尊敬すべき点だ。
「まぁ……彼は、自らの意志で社長に従っているし、身体だけは、すこぶる強いから。どれだけ目を回して帰っても、翌日には、また元気に自転車をこいで出勤する人だから」
僕には到底できない芸当だ。


 自宅から一番近いコンビニまで送ってもらい、買い物をしてから、僕は帰宅した。お借りしていた上着は、洗ってから返すと申し出て、そのまま着てきた。

 ひとまず、善治が元気そうで良かった。


次のエピソード
【24. 鉄槌】
https://note.com/mokkei4486/n/ndc96f4f2ec8e

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