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小説 「長い旅路」 12

12.リセット

 俺は、その日も動物園でサイを見ていたはずだった。しかし、ふと目を覚ますと病院に居た。至って清潔なベッドの上で、見覚えのある点滴を打たれていた。
 個室ではなく、ベッドを囲むカーテンの向こうに、複数の人の気配がする。老齢の男性の声がする。

 自分が病院に居ることはすぐに理解できたが、その『理由』に心当たりが無い。動物園内で、失神でもしたのだろうか……?

 呼んだわけでもないのに看護師が来て、今は朝なのだと知った。彼女は、俺が起きていることに一切言及しなかった。搬送されてきてから、既に何日か経っているのかもしれない。全く、記憶は無いが……。
 やがて、プレートの上に汁物が4つ並んだだけの「朝食」が運ばれてきて、げんなりした。
 これは「流動食」というやつだ。固形の食事が摂れないほど、胃の状態が再び悪化しているということだろう。


 全ての汁物を飲み干したら、他の患者が、空いた食器を廊下に置かれた配膳用の台車に返却していることを知り、自分も返した。
 点滴が煩わしいが、仕方ない。
 その後、どうにかトイレを探し出して用を足してから、戻るべき部屋が分からないことに気付いた。廊下で見つけた看護師を捕まえて自分の名を告げると、内線で どこかに連絡してから、部屋まで案内してくれた。
 俺は、彼に「自分が、どういう経緯で入院したかを知りたい」と申し出た。
 彼は「調べてくるから待ってね」と言って姿を消したきり、戻ってこなかった。

 暇を持て余していると母が訪ねてきて、洗濯を引き受けてくれた。俺は、看護師に訊いたのと同じ事を母にも訊いた。
「動物園で、倒れたんだよ」
「……いつ?」
 母が卓上カレンダーを手に答えてくれた日付は2週間近く前で、更には、俺は救急搬送されて入院して以来「毎朝 同じ事を訊いて廻っている」らしい。
「マジか……」
思わず声が出た。
 しかし、記憶の障害に関しては、もはや自分でも【諦め】の域に達している。今更、抗おうとは思わない。
「お腹が治るまで、ゆっくりしてればいいよ」
母は笑いかけてくれるが、表情には疲れが滲み出ている。
 母を疲れさせているのは、俺だ。仕事に加えて、ここに通って俺の世話を焼く羽目になっているのだから……。
 母が見せてくれた卓上カレンダーには、俺が入院した日、胃や頭部の検査を受けた日が、全て きちんと書いてある。

「俺の財布、どこにある?」
母は「ここにあるよ」と言いながら、ベッドの脇にある、テレビが置かれた戸棚を開けて見せてくれたが、すぐに閉めてしまった。
「あんた、自分で買い物行ったら、また迷子になるでしょ。……何が欲しい?買ってきてあげる」
「え……」
特に、欲しい物があるわけではない。単純に、貴重品の在処が知りたかった。
「スマホと充電器も、ある?」
「スマホは駄目。しばらく、ゲーム禁止」
(嘘だろ……!?)
動物の動画が、観られないではないか!
「先生から言われたの。『脳を休めてください』って……。だから今、スマホは家にあるの」
(何をして過ごせばいいんだ……!?)
「家から、漫画持ってきてあるよ。ほら」
母が、ベッドの下からボストンバッグを引きずり出し、中に数冊だけ漫画本が入っているのを見せてくれた。
「それだけ?」
「だって、初めは これに服を入れて来たんだもの」
入院後に、俺の部屋にあった 一冊で完結している作品を適当に選んで、持ってきてくれたという。(俺は基本的に、巻数の多い連載作品は買わない。図書館か古本屋で立ち読みをする。)
 間食が許される状態ではないことも解っているので、買い物は頼まなかった。


 母が帰った後は、すごく退屈だった。イヤホンを繋いでテレビを見ようかとも思ったが、視聴するには有料のカードが要る。それは院内のどこかで買えるというのは解るが、わざわざ店を探し出してカードを買ってまで、観たい番組は無い。やめることにした。
 しかし、数少ない漫画は、もう読み飽きてしまった。
 新しい本を探すか、ノートでも買って何かを書こうか。
 ひとまず、財布の中身を確認する。
 随分前に人生初の賞与で買った 革製の高級品ではあるが、中身は持ち主の「貧しさ」を物語る。小学生の所持金かと思うような、ごく僅かな現金と、身に覚えのない名刺やレシートが何枚か出てきた。レシートの日付は3週間くらい前だ。名刺は「吉岡 諒さん」と「飯村 玄一郎さん」のものである。
(誰だ、これは……?)
 申し訳ないが、吉岡さんは本当に全く解らない。完全に記憶が消えているようだ。しかし、どれだけ考えてみても、やはり自分には「絵本作家」との接点など無かったはずだ。偶然 立ち寄った書店かどこかで、作家が来場するイベントでもあったのだろうか……?全く記憶に無い。
 飯村さんのほうは、覚えがある気がする。しばらく考え込む。
(……あぁ、そうか!玄さんのフルネームだ!)
思い出した。同じ作業所で、毎日 一緒に弁当を食べていた おじさんだ。名刺をもらったことは全く憶えていなかったが、彼の流暢な話し方と、日本人には珍しい瞳の色は、よく憶えている。よく、俺を庇ってくれた。優しい人だ。
 彼は、今も あそこで椎茸の管理を頑張っているのだろう。

 俺は……吐いてばかりで体力が落ちて、だんだん休みがちになって、いつの間にか「やる気が無い」という烙印を押され、然るべき聴き取りさえ受けられないまま、的外れな説教が馬鹿馬鹿しくなって辞めた気がする。
 もはや、どうでもいい。
 俺の認識としては、あそこの職員は、社長以外は全員「馬鹿」だ。



 どのくらい入院したのか、自分では判らなかった。時間・日付の感覚が、すっかり消え失せていた。自分の住所や氏名さえ忘れそうだった。
 どうにか退院し、母と2人で家に帰ったが、自分の家ではないような気がしてならなかった。家の中にある全ての物が、愛着も何も無い『借りもの』に思えた。
 父は不在で、母に促されてリビングに行き、ひとまずソファーに座った。
「おかえり、和真。おかえり……」
隣に座った母が、以前のように背中を撫でてくれた。そして、俺に「日時」を実感させるためか、テレビをつけた。映っている番組を見て、母が「今日は火曜日だね」と言った。
 しかし、俺は「かようび」とは何なのかさえ、瞬時には解らなかった。テレビ番組の内容も、まるで頭に入らなかった。映っている人は全て、人形だかロボットだか……そういう「作りもの」に思えてならなかった。
 母が淹れてくれた茶を、しばらく眺めていた。見たことのある食器のはずだが、なんとなく『違和感』がある。前とは、色味か、厚みか……何かが違う気がしてならなかった。
 中身に口をつけても、まるで味がしない。
「今日は、何が食べたい?」
答えることが出来なかった。入院中は、自分の意思で食べ物を選ぶことなど出来なかったから、料理の名前など、ほとんど忘れていた。
「食欲ある?」
「わからない……」
「……お粥にしようか」
「うん……」

 父が帰ってくる前に、2人で淡々と食事をした。自分が何かを食べているのに気付いたら、ふと、思い出した言葉があった。
「俺、サイが見たい」
「明日、行っといで」
「明日……」
明日になれば、彼らに会うことが出来る。
「早くお風呂入って、早めに寝なよ。……疲れたでしょ。久しぶりに電車 乗って……」
そんな気がする。

 独りで風呂に入って、上がったら父が居た。父は不機嫌そうに夕食を食べながら「よう」とだけ言った。
 父の体から漂ってくる、汗と機械油の匂いが、その日の現場の忙しさを物語っていた。
 そして、自分は入院前、この父に幾度となく殴られた……ということを、思い出した。
「相変わらず、だんまりだな……」
悪態を吐きながら無様に食い散らかす父を前に立ち尽くしていると、母が すっと立ち上がって「何か飲みに来たんでしょ?」と言い、台所に連れて行ってくれた。
 俺は、久方ぶりに「冷蔵庫の中」を見た気がする。
 俺は牛乳を選んだ。

 母が注いでくれた一杯を、台所で立ったまま ちびちびと飲んだら、すぐに自分の部屋に引っ込んだ。
 久しぶりにスマホを手にとって、夥しい数の未読メールを無視して、インターネットに繋がるかを確かめた。
 無事に繋がり、俺はまた好きなだけ動画を観ることが出来た。


 母が「寝なさい!」と言いに来るまで、ずっと動物園の動画を観ていた。


次のエピソード
【13.脱出】
https://note.com/mokkei4486/n/nb9c3c1e44d18

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