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小説 「吉岡奇譚」 30

30.「諒」

 深夜。ついに全ページの作画が完了した。興奮を鎮めるためアトリエを出て、台所で手や腕を入念に洗い、絵の具が乾いた頃を見計らって3階に戻り、改めて全ページを見直す。
 大満足だ。思わず、ため息が漏れる。
 今すぐにでも悠介達に見せびらかしてしまいたいくらいだが、それは規則違反である。
 明日の、岩くんとの打合わせが楽しみでならない。

 翌日の午後、約束どおりの時間に彼が訪ねてきた。
「おはよう!」
「おはようございます、先生」
 手洗い・うがいを終えた彼を応接室に通し、まずは茶を出して休憩してもらう。
 そこで、現在和室を貸している人物について、少しだけ説明する。本人は外出しているので会うことは無いかと思われるが、室内の様子が明らかに違うことを、予め伝える。
「デビュー前の自分を見ているようでね……放っておけなかったんだ」
「ご結婚前の、悠介さんのようですね」
「まぁ、そうだね……。ただ、あの頃の悠介よりも、重症だ。抑うつだけではなくて、幻覚やら健忘やらが目立つし、拒食症状があるし……」
「外出する元気はあるのでしょう?」
「すぐにバテてしまうよ。食べるのが難しいから、なかなかエネルギーが摂れない」
「なるほど……」

 彼が茶を飲み干し、2杯目を注ぐ様子もない。
「……そろそろ、始めるかい?」
「そう致しましょう」
 絵が濡れないよう、食器を片付けて机を拭いてから、棚にしまっていた封筒を取り出す。
 封筒の紐を解き、完成した原画を机の上に並べていく。
「おぉ……!」
彼が歓声をあげる。
「『作画監督』の、お眼鏡に かなうだろうか?」
「作画監督?……あぁ!悟ですか?
 きっと、気に入ると思いますよ」
「初版が出たら、プレゼントしてあげよう!」
「良いですね……!」
彼は、そう言って静かに笑ってから、絵を汚さないよう封筒に戻し、文章のみを印刷した紙の束を手に取った。
「それでは……こちらを、拝見します」
 彼は、まずは一度、高速で最後まで一気に読んでいく。長さや文字数、明らかな誤字の有無など、事務的な観点からのチェックである。
 2回目で、内容を心に刻むかのように、じっくりと読み進める。笑ったり、頷いたり、率直な感想を述べたり、まるで一般の読者のように楽しんでくれる。
 3回目で、再び封筒から取り出した絵と、同じページに掲載する予定の文章を、左右に並べた状態で、完成した絵本を想像しながら、じっくりと鑑賞・検討する。
 文章やページ数を挿入する位置や、書体について、話を煮詰めていく。
 彼は、決定事項を素早くタブレット端末に入力していく。
 ペン入れ前に打合わせを終えて「確定」となっていた本文も、改めて見直した今、必要があれば赤ペンで細部を修正していく。絵を描き直す必要の無い範囲で、主に句読点や表記について、綿密に意見を交わす。
 特に「お父さん恐竜」の台詞は、彼の意向を尊重する。(モデルが彼であることは、本人には明かしていない。)


 打合わせを終え、全ての絵を納めた封筒と、確定した文章を記した紙の束を、彼は慎重に原稿運搬用の手提げ鞄に入れる。硬くて四角い、防水仕様の高級品だ。
「これは、良いものになりますよ」
「そうかい?」
パチン、パチンと音を立てて、鞄にロックをかける。
「ファンには堪らない一冊となるでしょう。……【最後】に相応しい、素晴らしい お話だと思います。私の心には、響きました」
 タブレット端末や他の携行品は、原稿とは別のリュックにしまう。
 身支度を整え、原稿を持ち帰ろうとする彼に、私はどうしても伝えたいことがあった。
「岩くん。長い間……本当に、ありがとう」
「これが私の職業です」
 彼は、リュックを背負ったまま、手提げ鞄だけは机に置いた。
「単なる『編集者』以上の働きを、してくれたじゃないか。まるで、世話係か、治療者のような……」
「私自身は、会話や整体も『業務の一環』であると捉えています。闘病しながら書かれている作家さんは、吉岡先生だけではありません。
 私は……自分が担当させていただく方については、可能な限り、心身の苦痛を取り除けるよう……努めて参りました。
 無粋な言い方になりますが、先生方の体調や意欲は、弊社の利益に関わります。私は、僭越ながら『経営者の親族』ですから……自社の存続のために、最善を尽くさねばなりません」
彼が担当してきた作家の中には、病によって、原稿を遺して亡くなった作家も居れば、寝たきりのまま眼や口で原稿を書く作家も居る。私は彼らに会ったことはないが、存在だけは、彼との会話と、著書やメディアを通じて知っている。
「君に逢えるからこそ、生きて、書いているような作家が……私の他にも、たくさん居るのだろう?素晴らしい仕事じゃないか。異動してしまうなんて、本当に惜しいよ」
「滅相もない……」
「君の技や魅力は、医療者には無いものだよ。君自身が『重症患者』だったからこそ……学んだ事があって、たどり着いた【境地】があるだろう?……私は、だからこそ君を信じて、ここまで来たんだ。刑務所に入ることもなく」
「吉岡先生ともあろう方が、刑務所になど……ありえません」
「いいや。……止めてくれる人が居なければ、私はテロリストになっていたかもしれない。あの種豚場に火を放って……山林もろとも、寮や集落を焼き払って、死刑になっていたかもしれない」
彼は、至って真面目な顔で、首を横に振る。私に「それ以上は何も言うな」と言わんばかりに、その掌を、こちらに向ける。
「吉岡先生の【理性】と【良心】は……常人とは、比べものになりません。ご自身を、どれだけ傷つけてでも……確固たる信念のもと、守るべきものを、守られた方です。
 そのような方が、山に火を放つなど、ありえません」
私に向けていた手を降ろし、その手で作った拳を、反対の手で包み込む。古の中国の敬礼のような形を作る。
 手には力が込もり、震えだす。
「先生ご自身は、忘れてしまわれたのかもしれませんが…………私は、師の教えを胸に刻み、弛まぬ努力を重ね、どれほどの冷遇や侮蔑にも挫けずに、差別に立ち向かい続け……それでも、受けた恩には報い、師への忠義を尽くし、教義を守り抜いた先生を……心から尊敬しています。
 吉岡先生と、共に物語を創ってこられたことを、私は誇りに思います」
 彼は、私の身に起きたことを、全て知っている。情報源は私自身の証言やブログの内容だけではなく、実際に加害者側とコンタクトを取って事実確認をした上で、私のフラッシュバックや激昂に 対処し続けたのである。本職の精神科医や看護師よりも、遥かに きめ細やかな対応である。
 単なる「出版社の従業員」である彼が、そこまでの『時間外労働』をしても、一切の報酬は出ないにも関わらず……。
「……ちょっと、美化しすぎではないかい?」
私は、いつもの調子で腕を組み、首をかしげる。
 いよいよ、彼との【禅問答】が、熱を帯びてくる。私が、冷めた持論を呈さない限り、彼の熱量は下がらない。スケジュール的な余裕さえ在れば、何時間でも話そうとする。
 彼の脳内には【宇宙】が在る。
「私にとっては、吉岡先生は、本当に偉大な方です。先生が、僧侶でも医学博士でもないことが、不思議でならない……」
「私は、貧しくて博士号が取れなかった。修行に耐えられる身体でもない。それだけのことさ」
「先生が、あの山で なさったことは、紛れもない【修行】です!先生は、ご自身の生命を賭してまで、全ての【生命】についての探究を、真摯に続けられたのです!!先生ほど深く学んだ研究者は、そうそう居ません……!」
「私は、リサーチャーには向かない人間だよ。宗教家でもない」
「大学組織に馴染めないからといって……その研究に、価値が無いわけではありません。吉岡先生の壮大な【研究】が、どれだけ多くの人を救ってきたか……!!」
「私は、もう『研究』なんて辞めてしまったんだ。ただ、憎しみに囚われているだけの……醜い生き物だよ。ただ読み書きが出来るだけの、猿みたいなものだ」
「そのように、ご自分を卑下なさらないでください!!先生の著書は、長きに渡る【修行】と【研究】の賜物です!猿が描いたアートとは違います!!」
「……君は、本当に優しいねぇ」
彼は、まだ何か言いたそうだったが、それを飲み込んだ。
「先生には、遠く及びません……」
「何を言うんだ。……私は、穢らわしい【殺し屋】だ。何万頭、殺してきたか分からない」
「それをすることによって、人命を守ってこられたでしょう?」
「どうだろうね……。無益な淘汰が多すぎたと思うよ。おおよそ極楽には行けまい」
「私の眼に写る先生は……数えきれないほどの人々を救ってきた、偉大な方です」
「そんな風に見えるかい?」
「見えます」
彼は、力を込めて断言する。
「……偉大なのは、君だ。君こそ、真の意味で他者を生かし、人を救っている。
 私は、君の技を盗んで、他者を誑かしている……不届き者だ」
「いいえ!」
「君こそが、真の意味で悟っているはずだ。私の、あれは……まやかしだ」
「まやかしであるはずがない……!!」
「……君の【良心】には、頭が下がる」
彼の眼が赤い。
 私は、彼の澄んだ白目が見たい。
「ところで……話は変わるのだけれども。お寿司屋さんに行く日は、いつにしようか?」
「えっ……?」
「千尋さんのご予定は、訊いたかい?」
「いいえ、まだ……。最後の作品が、出てからにしよう、としか……」
「なるほど」
 彼は、眼鏡を外し、目を擦った。
「……寝なくて、大丈夫かい?」
「今日は、この素晴らしい原稿を、一秒でも早く本社に……持ち帰ります。吉岡先生の【最後】の絵本ですから、営業に掛け合って、マーケティングも、大々的に……」
眼鏡をかけながら、淡々と語る。
「安っぽいキャッチコピーなんか要らないよ。サイン会も、しない」
「せめて、然るべき方に、帯を書いて頂かないと……」
「私は、そんな大物じゃない」
彼は、原稿の入った鞄を持ち上げ、大事そうに抱えている。
「本社まで、車で送ろうか?」
「運転は、控えてください。先生……」
「正論だね」

 彼は玄関で恭しく最敬礼をしてから、駅に向かって歩いていった。
 私は玄関先に出て、その背中を見送りながら「記念に、ハグでもしておけば良かった」と、少し後悔した。

 まっすぐアトリエに上がり、まずはベランダで煙草を吸う。彼の姿は、もう見えない。
 閉めたガラス戸の向こうにある、もう趣味でしか使うことのない部屋を覗くと、背中を丸めて絵を描く自分や、取り乱して叫ぶ自分の、姿が見えてくるような気がした。
(この家に引っ越してからは、何年になるだろうな……)
 年数に関する記憶は定かではないが、5作目以降は、ずっと この部屋で描いてきた。それだけは確かだ。
 弟が、絵本作家としての仕事が軌道に乗り始めた私のために「アトリエと書庫が確保できる、ガレージ付きの家」を買ったのだ。
 本来であれば、その金は、彼が妻と暮らす家を買うためのものだった。
 彼は、妻の死後、貯蓄の大半を私に投資し続けている。
 私は、その弟に引退のことを伝えていない。
 絵本の製作をやめるだけで、他の執筆は続ける。私は、これからも「作家」だ。それ故に、連絡の必要性を感じなかったのだ。
 休職中の坂元くんにも、同じ理由で、伝えていない。

 2本目に火を点ける。
 今になって、私は岩くんとの会話を反芻する。
(あの頃の……あれほど無様な私を、知った上で『偉大』とまで言うのは、彼だけだ……)
 ラジオやインターネット、あるいは口頭による伝聞で、病態や言動、出自を理由に、何年も執拗に侮辱され続けてきた私の、信仰心や探究心に基づく『真意』や『動機』、性自認に関する悩み、生死に関わる葛藤に至るまで……全てを知った上で、それを正しく理解し、真正面から【肯定】してくれたのは、彼だけだ。

「起きたことは、
結果として 全て【諒】である」

 私の、ペンネームの由来となった格言である。どの書籍で読んだのかは、もう忘れてしまった。
 この格言における【諒】とは、同音の漢字「良」と概ね同義である。
 噛み砕けば「貴方の身に起きたことは、全て、貴方にとって『良いこと』である」という意味である。
 我が身に起こる全てを、己の魂を磨くために与えられた【試練】と捉え、肯定的に受け止めよ という教えである。何か凄惨なことに見舞われて、何かを失った時、いつまでも長々と「あんなことさえ起きなければ……!」と悔やむことの無いように、「あんな目に遭ったからこそ、今の自分がある」「あれを糧にして、成長することが出来た」と、前向きに捉えることが出来るよう、心がけよ……という、その崇高な教えを、忘れてしまわないために、私はペンネームを【諒】とした。
 また、この【諒】という字には「偽りの無い」「正しい」という意味がある。とある図書館で、この格言を目にした時、私は「おまえの歩んできた道に、間違いはない」と、大いなる存在に背中を押していただけたような気がして、心が救われたのだ。

 生命以外の ほとんど全てを失った後「本に書かれた文章」だけが、私の味方だった。死ぬほどの孤立を味わい、どん底に落ちた私は、もはや「我が身に起きたことを、諒とする」ためだけに生きていた。連日、数えきれないほどの文献を読み漁り、絶望的に愚かしい己を肯定する論拠を、ひたすら探していた。
 やがて、その習慣が「自分も、真に良質なものを書いて、かつての自分と似た悩みを抱える人達を救いたい」「他の人が、自分と同じ穴に落ちて、無惨に死ぬことの無いように」という、大それた願いに繋がり、そこで書き始めた文章が、数年後には、私を人生最高の友と巡り逢わせたのだ。
 その友が、私を生かし、職業を与え、踏み躙られた【尊厳】を、この身体に返してくれたのだ……。
 迷いの無い声で「貴方は正しい」と言いながら、本当に背中を押してくれる……かけがえのない友が、居るのだ。私には。

 絵本を描くのをやめたとしても、私は、この名で物語を紡ぐことを、やめるつもりは無い。
 傍らに彼が居なくとも、私は『吉岡 諒』なのだ。

「我が生涯に……悔いなど、あるものか……」
 私は、誰も居ないアトリエに向かって、言葉を吐いた。精一杯の強がりだった。
 そこで、濃厚な涙が一筋だけ、頬を伝ったのを感じた。

 私が、あの山林や大学に、火を放つ理由は無い。「彼らの蛮行を赦さない」という意志に変わりは無いが、そのような愚行に及ぶいとまが在るなら、一冊でも多く、書きたいのだ。


 年甲斐もなく鼻をぐすぐす鳴らしながら、吸い殻を片付け、立ち上がって伸びをする。腰を捻ると、ボキボキと音がする。
 痛む箇所を探りながら、思いつくままに身体を捻ったり、関節を回したりしていると、出かけていた若い2人が、よく膨らんだ買い物用リュックを背負って、坂を登ってくるのが見えた。
「おかえり」
絶対に彼らには届かない声で呟いてから、私は家の中に入った。

 玄関で会った藤森ちゃんが驚き、私に涙のことを訊いてきた。
「今日、最後の原稿を提出して……感極まって、つい……」
 私は、正直に答えた。
 彼女は、黙礼で応じた。
「ありがとう。……何を買ってきたんだい?」
藤森ちゃんはレシートを渡してくれたが、倉本くんは、お構いなしに冷蔵庫のある2階に上がっていく。
「……彼、働き者だね」
藤森ちゃんは、苦笑して首をかしげる。
「藤森先輩としては、異論があるかい?」
【意味の分からない 独り言が多くて、ほとんど会話になりません】
「意味の分からない……?」
【肉の売り場で、ずっと一人で、ぶつぶつ……何かを喋りながら、ほとんど動かなくて】
「なるほどね。彼は、鶏の専門家だったんだよ。私が聴いたら、言葉の意味が分かるかもね」
彼女は、再び首をかしげた。「どうだかなぁ?」とでも、言いたげだ。
「晩ごはんが楽しみだ」


 夫が、今日も早く帰ってきた。4人揃って夕食を摂る。今晩のメインは参鶏湯サムゲタンである。
「諒ちゃん。今日、哲朗さんが来たんだろ?」
「あぁ。……最後の原稿を出したよ。特に問題が起きなければ、私は このまま【引退】だ。もう、仕事で絵を描くことは無いだろうね」
 若い2人は、基本的に、食事中には話さない。私と夫の会話を黙って聴いているか、黙ってテレビを観ている。
「諒ちゃんが絵を描かないなんてなぁ……変な感じだな」
「これからは、文学をたくさん書くよ」
「……名前は、どうするんだ?」
夫は、私のペンネームが複数個あることを知っている。
「絵本と同じ……『吉岡 諒』の名で、児童文学を書いてみたいんだ」
「やっぱり、子どもに読ませる本が一番好きなんだな」
「まぁね」

 岩くんと逢った後の、涙で魂を洗い清めるような崇高な時間は、私にとって、最上級の癒しであり、また 最高に誉れ高い気持ちにさせてくれる、尊い時間である。
 だが、夫との等身大の会話も、私にとっては「幸せ」を実感できる大切な習慣である。彼に「諒ちゃん」と呼んでもらえることが、ささやかでも確かな「幸せ」だ。

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【31.自らを「ゴミ」と云う】
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