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小説 「僕と先生の話」 10

10.夫婦と家族

 動物園に行ってから約1ヵ月後。予定通りの連休明け。先生から「昨日から来客が泊まっている」と連絡があり、僕はそれを善治だと思い込んでいた。

 しかし、何食わぬ顔で先生宅のリビングに居たのは、編集者の岩下さんだった。
「お、おはようございます……」
「おはようございます」
 驚いている僕をよそに、彼は至って冷静に挨拶を返してくれた。
 しゃきっとしているし、髪やひげもすっきりと短くなっていて、初対面の時とは別人のようだ。体も、前回より大きく見える。
 彼は、善治のものだというジャージを着たまま、タブレット端末で仕事をしていた。

「昨日、妻に追い出されまして……」
こちらから理由を尋ねる前に、彼が言った。
「喧嘩でもしたんですか?」
「そんなつもりはないのですが……」
普段なら「もっと早く帰ってきなさい!」と言う奥さんが、昨日は実家から母親を呼び寄せて、彼を追い出したのだという。
 そういう時の避難先が、ビジネスホテル等ではなく、女性作家の自宅なのか……。(先生のペンネームは男性名だけれど。)


「あ、そろそろ着替えないと……」
会社に向かわなければならない彼は、1階に降りていった。僕のために玄関の鍵を開けてくれた先生は、そのまま3階に上がっていってしまった。
 2階に残された僕は、すぐに出かけるであろう彼を見送るためにも、1階の様子を見に行くことにした。適当に風呂掃除でもしながら待とうと思った。(中から鍵を閉めなければならないからである。)

 先生が降りてくるはずがないと分かっていただろうし、僕がすぐに降りてくるとも思っていなかったのだろう。和室の戸は全開で、僕は図らずも彼のボクサーパンツ姿を見てしまった。
 同性の裸を見たって、僕は何とも思わない。向こうも、何も言わなかった。平然とズボンを穿き、シャツを探している。自分が前日に着ていたものではなく、善治のポロシャツを借りて行くつもりらしい。
 せっかくだから、彼が脱いだジャージを受け取っていこうかと思って近寄ると、彼の胸や背中、頸の後ろ側に、大きな手術痕があることに気が付いた。両腕にも、いたる所に傷痕がある。
 特に、頸のそれは、生死に関わる大怪我の痕跡であるはずだ。
 先生も言っていた【不死身】という単語が、脳裏をよぎった。
「ジャージ、もらいますよ」
「え?あぁ……お願いします。すみません」
畳の上にあったジャージを拾い上げ、僕はそのまま洗濯機がある脱衣所に向かった。

 ジャージを洗濯機に放り込んで、風呂場を確認した。浴槽は空で、綺麗に洗ってある。

「あの、坂元さん……私、このまま失礼します」
少し大きめのポロシャツを着た彼が、脱衣所まで挨拶に来た。
「あ、はい。いってらっしゃい!」
僕は、玄関まで同行した。
「今日は、ご自宅に帰れるといいですね」
「あはは、そうですねぇ……」
彼は目を泳がせながら、苦笑いをした。
 半袖を着ていると、腕の傷痕は丸見えだ。

 彼を見送ってから2階に上がり、2日ぶりに冷蔵庫を開けた。昼食の献立を考え、買い足さなければならない物を考え……。
 自宅なら、こんなに張り切らない。一日の大半を寝床で過ごし、水道水と牛乳だけで空腹を誤魔化す日が、どれだけあることか。
 連休が長引くと、カップ麺と野菜ジュースだけとか、レトルト粥にツナ缶をぶっ込むだけとか、溶き卵に味だけ付けて飲み干すとか、安上がりで手間がなく、死なない程度に栄養が摂れる組合わせを、無限に繰り返す羽目になる。どこかの飼い犬のほうが、よほど良いものを食べているだろう。
 今の僕は、人間らしい まともな飯を作って食べるために出勤しているようなものだ。


 インターホンに応対するための受話器は、2階の台所の近くと、3階のアトリエにある。2階と3階の間で、内線をかけることもできる。
 僕は、昼食ができたことを内線で先生に伝えた。

 食事をしながら、あの後、彼が善治の服を着て会社に行ったことを、とりあえず報告した。
「洗って返しておけば、問題ないよ。自分のアパートに置かないような服だし……」
なるほど。
「もはや、あの部屋は『善治の部屋』ではないからねぇ……」

 僕が面接に来た日以来、善治はこの家に来ていない。妻を死に追いやったはずの会社で、今も【働き方改革】に邁進している。社内で同じ悲劇を繰り返さないために、戦い続けているのだろう。
「先生は、善治さんの奥さんに逢ったことはありますか?」
「……驚いたね。君は、彼女を知っているのかい?」
「亡くなった奥さんがいるということだけ……」
「そういうことかい。
 私が彼女に会ったのは、ほんの数回だけだよ。あの2人は、式を挙げていないし。……ただ『変わった人だなぁ』とは思ったよ。好き好んで、あんな奴と一緒になるくらいだし……大卒で、あんなところに就職したし。……だって、英語科の教諭になりたいと言っていた人が、町工場で旋盤を回していたんだよ?不思議だったなぁ……。でも、彼女は素晴らしい職人さんだったと聴いているよ」
「職人だったんですか!?」
「知らなかったのかい?」

 先生は「良い機会だから」と言って、弟夫婦の話をしてくれた。
 善治と奥さんは、同じ大学の同期で、卒業と共に結婚したのだという。お互いに奨学金を抱えていたし「将来的には子どもが欲しい」と考えていた2人は、別々の会社に就職し、貯金を続けた。
 結婚から3年目、善治が1年間の予定で中国の工場に赴任することになり、奥さんは日本で働きながら、彼の帰りを待つことを選んだ。
 しかし……優秀なロボットエンジニアだった善治は、なかなか日本に戻ることが許されず、海外赴任は長引いた。勤務地が中国から台湾へと移り、彼は「妻を台湾へ呼び寄せたい」と考えるようになったけれど、彼女は頑なに日本を出ようとはしなかった。
 責任感の強い彼女は、日本の工場で男性陣と変わらない激務をこなしながら、自身の後継者の育成に尽力していた。
「彼女は、ぎりぎりまで『夫が帰ってきたら退職する』気でいたんじゃないかな?」
 先生はそう語るけれど、善治がロボット開発の仕事を辞めて帰国したのは、彼女が亡くなってしまった後である。
「日本で暮らしながら、仕事なんか放り出して、夫に海外から金だけ送らせる……という発想が、無かったんだろうね。真面目な人だから」
そういうことか。
「詳しいことは、本人にしか分からないけれども……あいつは、彼女の遺志を継ぐことにしたんだよ。
 そして、何も聴こえなくなるほど、あの場所で がむしゃらに働いてきたんだ」

 彼は立派だ。尊敬すべき人物だ。
 もちろん、奥さんも。

 僕は、ただのポンコツだ。
 本当は、とても自堕落な人間なのに、仕事場では几帳面なふりをしている。良心的な先生に、役割を与えてもらって、かろうじて『奉公人』を気取っているけれど、家に帰れば、もはや人ではなくなる。犬の餌より酷い飯を食って、将来のことなんか何も考えず、ただ日々を暮らしている。こそこそと、隠れるように暮らし、人々の笑い声に怯えながら生きている。
 善治や岩下さんのように、戦い続けられる人間ではない。
 僕が、家族を持つべきではない。


次のエピソード
【11. 先生の声】
https://note.com/mokkei4486/n/n5b867b264543

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