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小説 「僕と彼らの裏話」 32

32.面談

 汚れていない私服に着替えてから、事務所の片隅に立って社長を待つ。彼女は、現場の戸締りを終えてから、明日以降の予定について常務と話し合っている。
 会話の中で時折「専務」という呼称が出てくる。文脈から察するに、彼は社長と同居しているようだ。


 申し送りが終わり、社長が駐車場に向かう。僕は、常務に挨拶をしてから、付き人のように社長の後を ついて行く。

 社長の車は、コンパクトカーとはいえ海外の高級ブランドのもので、その立派な内装に面食らいそうだった。「自社の経営は順調である」と社内外にアピールするために、あえて高価な車に乗っているのだろう。(価格は、僕がつい最近購入した軽自動車の3倍くらいだろう。)
 乗り込むと、一気に緊張感が押し寄せる。
 高級車だから、というだけではない。
 僕の経験上、自動車の運転席および助手席で話す言葉というのは、ほとんど全てドライブレコーダーに入る。それを利用して言質を取るような卑怯な社長ではないと信じてはいるけれど、警戒するに越したことはない。
 そして、此処が過疎地の農道なら いざ知らず、大都市の住宅街なら、車内の音声は「外部の通行人に丸聞こえ」だと考えたほうが良い。一見【密室】に思える自動車の中でも、それが走っている場所は【天下の往来】である。
 誰の車であっても、僕は「車の中」に居る時、可能な限り個人情報は口に出さず、必要最低限の言葉だけを淡々と述べる。

 エンジンが かかると同時に、僕の知らない洋楽が流れだす。(ゆるやかな落ち着いた曲調で、複数人の男性ボーカルが歌っている。歌詞が英語であることは判るけれど、意味は ほとんど解らない。)
 社長が、ハンドルに付いているスイッチで音量を下げる。
 降ろしてもらいたい場所を伝え、車が動き出してから、僕は、以前勤務した町工場で何に苦戦したのかや、辞める直前の体調等について、今後の業務に関わりそうなことは全て正直に話した。
 社長は、ふんふんと頷きながら静かに傾聴してくれる。運転の仕方も、優しい。
 僕は「先生の弟さんにスカウトされなければ、生命すら危うかったかもしれない」と、馬鹿正直に打ち明けた。
 若き社長は、ずっと進行方向だけを見据えている。
「弊社は、アルバイトの方に、そこまでの負担を強いることはしません。……私が、させません」
「恐れ入ります」
「私は……坂元さんには、可能な限り、あの『個室』での作業をお願いしたいと考えています。弊社の現場で、最も『空気が綺麗』で、他の従業員との接触がほとんど無い部屋なので……」
「わかりました。……ありがとうございます」
「機械操作に不慣れな人や、極端な『寂しがり屋』であるとか、監視の目が無いと手を抜いてしまうタイプの人には……任せられない仕事です。
 しかし、貴方には、独りでも最後まで きちんと やり遂げる、集中力があります……。そして、ブランクがあるとは思えない、弊社としては最高クラスのスピードと精度です。素晴らしい【戦力】です」
「お、恐れ入ります……」
「西島工場長が、ずっと貴方をスカウトし続けた理由が……今日、よく解りました」
「とんでもないです……」
 その後、彼女は「事後になってしまって申し訳ない」と詫びた上で、僕が後日提出すべき書類について説明を始めた。履歴書、給与振込口座やマイナンバーが分かるもの、そして……。
「もし【手帳】をお持ちなら、全て持ってきてください。コピーを取らせて頂くので……」
僕が持っているのは『精神』の一つだけだ。
「わかりました」

 22時過ぎともなると、道は空いている。
 普段歩く歩道と、車道から見える景色は違う。しかし、それでも見覚えのある建物が見えてくる。カーナビは使っていないけれど、車は順調に僕の自宅へ近づいている。
 しばらく黙っていた社長が、改まった様子で口にした。
「悠さんは……『話が出来る状態ではない』と聴きました……」
それは、僕も先生から聴いている。そして、ICUを出た後も依然として意識が不明瞭だという彼のスマートフォンは、ずっと先生が預かっているということも、知らされている。
 彼は今、うわ言や唸り声くらいなら発するけれど、他者と明確な意思の疎通が出来る状態ではないという。
「しかし……それは、今のところ、社内では私と坂元さんしか知らない事です……」
「僕は、誰にも話していません」
「どうか、今後も このまま【秘密】にしておいてください。他の人達を、無闇に動揺させたくはないので……」
「わかりました」
心配事は、怪我の元である。
「坂元さんが弊社で働き始めた理由も……『吉岡先生が、お一人で長い取材旅行に出ている』ということにしています。その間の休業補償としての、アルバイトであると……」
「わかりました。もし誰かに訊かれたら、そう答えます」
「恐れ入ります……」


 僕が指定した、駅近くのコンビニに たどり着いた。
 降りて入店する気の無い社長は、僕がドアを開けるなり「金曜日を楽しみにしています」と言って左手を軽く挙げた。
 僕は「それまでに書類を用意します」と応じ、車を降りて社長を見送った。

 コンビニで、翌朝の朝食と共に履歴書を購入した。


次のエピソード
【33.静寂と動揺】
https://note.com/mokkei4486/n/n302dc98a4604

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