小説 「吉岡奇譚」 23
23.展望
夕方、指定した時間に、私がインターネットで注文していた品が届いた。
オーストラリアの国鳥エミューの脂肪から精製したオイルである。私は、それを藤森ちゃんに贈るために買ったのだ。
夕食の準備が終わる頃に、彼女を食卓付近に呼び寄せ、箱ごと手渡した。
誕生日でも何でもないのに、突然 贈り物を受け取った彼女は、きょとんとしている。
「いや、その……自分が、若い頃に交通事故で火傷をした時、どうやって治したか?というのを、ふと思い出したんだ」
このオイルは高級スキンケア用品として売られているが、火傷や傷痕の治療にも使える。
私は20代前半の頃に、自分が運転する車で事故を起こし、前腕に火傷を負ったことがあるのだが、受診先で受けた嘲笑に腹を立て、その後は医師に頼らず このオイルで治したのだ。
彼女にも、それを伝えた。
そして、今では、そんな怪我をしたこと自体を すっかり忘れてしまうほどに薄い痕跡となった、右腕の火傷の痕を彼女に見せた。
「古い傷にも効くかどうかは、分からないけれども……試す価値はあると思うよ」
彼女は、しばらく固まっていたが、やがて深々と頭を下げた。
「体質に合って、効くようなら……2本目以降は、自分で買いなよ」
彼女は無声音で「はい!」と言いながら、大きく頷いた。
元来の気骨が、垣間見える。
私は、今日は夜間に重要な用事がある。例の【対策会議】である。
絵の具で汚れていないズボンに穿き替え、清潔なシャツと祖父の形見である高級なベストを着た上から、社名入りの上着を羽織る。これが、私の【正装】だ。
留守を任せる彼女には「タイムカードは切らずに『残業扱い』にすれば良い」と告げ、私は車で夫の勤務先に向かった。
現場での仕事が落ち着いてから会議を開くため、開始時間は終業後である。(社長と常務が現場を離れても支障が無い日時が選ばれた。)
「現場」と対比して「事務所」と呼ばれている建物の3階に、会議室がある。接着等の作業場として用いられることもある部屋で、余計な物品は一切置かれていない。ともすれば「殺風景」な部屋であるが、私は、まるで武道場のような凛とした雰囲気の この部屋が大変好きである。雑念を払って「話」に集中できる空間だ。立ち入ると、自然と気が引き締まる。
私が「事務所」に顔を出したのをきっかけに、会議室の隅に畳まれていた机と椅子を並べる作業が始まった。私が社長と2人で会場設営をしている間に、それぞれの仕事を終えた他の出席者達がやってくる。
ほとんど全員が揃った頃、今や78歳となった先代の経営者、通称『工場長』が、現役時代と変わらない様子で入室してきた。(現在の『社長』より前の経営者達は、皆『工場長』という役職名であったが、今や『工場長』は、彼の固有名詞に等しい。)
「よぉ。……お疲れさん」
「ご無沙汰しております、工場長」
私と社長は、最上級の敬意を込めて礼をする。まるで、師範に頭を下げる門下生である。
「もう『工場長』じゃないぞ」
相変わらず、工場長はポケットに両手を突っ込んだまま、フランクな話し方をする。煙草の匂いがする。
名義上の経営者ではなくなったとはいえ、今も「相談役」として在籍する彼は、事実上のトップである。
現場を抜け出してきた常務が入室したことで、出席予定の8人が揃い、会議が始まる。議長は社長である。
彼女は、出席者に紙の資料を配布した上で、ホワイトボードに要点を書きながら、話を進めていく。私達が中高生だった頃の、学校の授業のような雰囲気である。
私は、配布された資料に適宜メモを取りながら、傾聴する。(資料やホワイトボードを眺めるだけで何も書かない出席者が多数派であった。)
社長からの報告によれば、初めに見つかった掲示板に関しては、過去に工場長によって解雇された人物が、会社への報復のため、大学生に報酬を出して盗撮およびインターネット上での誹謗中傷をさせていたことが明らかになっている。実行犯である複数人の大学生は解雇され、彼らに違法行為を指示した人物は、罪を認めている。(おそらく、罰金が課せられる。)
2つ目以降のものに関しては、1つ目の掲示板の作成に関わった人物の一部と、被害者と同じ学校や会社に在籍していた人物の一部による犯行であるようだが、掲示板の削除と新規作成の『いたちごっこ』の状態であり、なかなか【解決】には至っていない。
しかし、1つ目の掲示板の件が解決したことで、少なくとも「盗撮」は無くなった。
盗撮を恐れて欠勤していたアルバイト達が戻ってきて、人手が充足し始めた。
犯人の特定には、費用がかかる。
要するに、乱立している掲示板 全てに対して、1つ目と同様の対応をとるか、それらの【風評】を無視して通常の業務を続けるか……というのが、本日の主たる議題である。
社長による前置きが終わり、真っ先に口火を切ったのは工場長である。
「こんなもん、ただの【落書き】じゃねえか!こんなんを真に受けるような馬鹿は、うちには要らん!……放っとけ!!
うちは、町工場だぞ? 造る物が確かなら、それでいいんだ!職人の、前歴だの病気だの、家族の話だの……そんなんは『どうでもいい』んだ!
本人が、今、この場所で、確かな物を造ってくれるなら、どんな前歴でも、うちは雇う!出来ることを、させる!そこにケチをつける輩は、雇わない。……それだけだ」
工場長の意見は正論である。ただ、被害者の配偶者である私としては、看過できないものがある。
私も、口を開く。
「しかしながら、工場長……実名と共に【風評】を ばら撒かれた被害者の、精神的な苦痛というのは……」
「そんなもん、読まなきゃいいんだよ。時間の無駄だ」
工場長自身も、長年に渡って散々インターネット上に悪口を書かれている。(大半は、事実無根のデタラメである。)
「被害者自身が掲示板を見なくとも、街中で後ろ指をさされたり、絡まれたり、自宅や車にまで悪戯をされたり……掲示板にとどまらず、YouTubeやTwitterを使って、悪評が果てしなく……」
「おまえらの家に、何か悪戯があったのか?」
「いいえ……今の家には……」
ネット上の悪評を根拠にした悪戯があったのは、私が一人で別のアパートに暮らしていた頃だ。しかし、今の家でも、同じことが起きるかもしれないという不安はある。
「だったら、放っておけばいい」
「しかし……」
「俺は、松尾の親父が何者でも、知ったこっちゃねえし……松尾自身が、どんな悪ガキだったかなんてのも、知ったこっちゃねえよ。あいつの『過去』なんぞ、うちの利益には関係ねえからな。
だが、今のあいつは、我が社の【要】だろうがよ。仕事のために、義手から造るような、筋金入りの職人じゃねえか。何を恥じることがあるんだ。……堂々としてろ。
騒ぐ奴が、馬鹿なんだ」
工場長の着眼点と、私が危惧していることは、違う。
そこで、常務が遠慮がちに手を挙げる。
「えっと……僕、話してもいい?」
「どうぞ」と、社長が応じる。
「吉岡ちゃんとしては、旦那さんの悪口を たくさん書かれて、腹が立っているのだとは思うけど……会社としては『お金を使ってまで、犯人を探す理由があるか?』ということを考えなきゃならないんだよ」
「それは解っています」
「あそこに、松尾ちゃんや他の子の悪口が、どれだけ書かれていても……お客さんが欲しいのは【製品】だから、製品の質にさえ問題が無ければ、とりあえず受注には影響しないわけよ。……で、事実として、今も受注は減ってないのよ」
60代の常務は、私や夫、若い社長や その兄を「子ども世代の者」として扱う。しかし、決して見下されているようには感じない。まるで親族であるかのような、親しみが込もっているのは解る。
常務は、難しい事柄に挑戦する若い世代を、遥かな高みから温かく見守る、穏和な人物である。
「お客さんとしては、注文通りの品が手に入りさえすれば、あんな落書きなんか『どうでもいい』の。作り手が どこの誰であっても、物が確かで、納期が守られているなら、それでいいから」
工場長の意見と似通っている部分がある。
「あの落書きを放置して、問題が起きるとすれば、人が辞めちゃうことだけど……あんなものを読んだくらいで辞めちゃうような人は、そもそも『ものづくりの仕事』自体に そこまで興味が無いってことだから、初めから御縁が無かったのと同じようなもので……あまり、気にするようなことじゃないんだ。会社としては」
今、議題となっている掲示板に、常務に関する記述は皆無だ。だからこそ、冷静なのだろう。
「確かに、公共の場に落書きをするのは、犯罪だよ。デマをばら撒くのも……良くないことだね。でも、犯人を探すためのお金を、僕らが出すというのは……もう必要ないと思うな、今のところ。写真が載せられることは無くなったし、バイトの子達は戻ってきたし、お客さんも離れてないし……落書き以外の悪戯は、特に無いんでしょ?」
常務が出席者達を見回すが、誰も何も言わない。やがて、社長が「特に無いです」と応じた。
「あれの所為で、特別、具合が悪くなった人は……居る?」
「特に何も、申告は受けていません」
「だったら『健康被害』も主張できないわけだ」
常務と社長の会話を、全員が聴く形になりつつある。
「とりあえず『様子見』でいいんじゃねえか?」
工場長が言った それは【鶴の一声】に等しく、結局「業者には検索避けのみを依頼して、様子見」という対応をとることに決まった。
ばらばらと出席者達が立ち上がり、後片付けが始まる。
常務は、再び現場に戻るのだといい、そのまま退室していった。
片付けを終えた後、私は、社長の許可を得てから現場の外にある喫煙所に赴き、煙草に火をつける。外は すっかり暗くなっているが、喫煙所には照明がある。夜間でも、煙草を吸いながら図面を片手に打合せが出来るようになっている。
今、ここから見える場所に、夫は居ない。
「よぉ」
ベビースモーカーの工場長も、煙草を吸いに来たらしい。
「お疲れ様でした……」
「不満そうな顔してるな」
「……私としては、やはり削除要請は出し続けたいです。夫の、叩かれようを見たら……『全てを消してくれ!』としか、思いませんよ」
私が話している間に煙草に火をつけていた工場長は、ふぅーっと煙を吐いた。
「おまえが個人的に依頼すりゃいいだろ。『被害者の家族』なんだからよ」
「……工場長は、ご自身の【風評】について、どうお考えなのですか?」
「あんなもん、公衆便所の落書きと変わんねえよ。……ガキ共が、文字を並べて遊んでるだけだ。『情報』じゃねえ。意味すら成さねえ」
「それでも、真に受けて被害者を差別したり、小遣い稼ぎのために悪評を拡散したりする輩は居ます……」
「……おまえが、そんなに『掲示板』を警戒するのは、おまえの身に起きたような事が、旦那にも起きたら嫌だからだろ?」
「……そうです」
「気持ちは解るけどよ。……おまえが心配してるような事は、まだ実際には起きてねえんだ。起きるとも限らねえし……おまえの旦那は、無傷なんだよ。
それにな……今はもう、そんな時代じゃねえんだ。今のインターネットは【無法地帯】じゃない。きちんと法が及ぶ」
「無傷……では、ありません」
「暴れたりしてるか?」
「お恥ずかしながら……」
「……まぁ、親のことまで書かれちゃあな。腹が立つよな」
私は、2本目に火をつける。
「おい。それよりも、おまえの身体はどうなんだよ。……最近、松尾が やけに『妻の体調不良』で早上がりするそうじゃねえか」
「それは……」
私は、自宅でDVの被害者を匿っていることを、小声で告げた。
「私の体調が……というのは、口実です。夫は、彼女のことが心配で、早く帰ってくるのです。……どうか、ご内密にお願いします」
「なるほどな。……嫌な世の中だな」
「まったくもって……」
工場長は、煙草の火を消した。
「それじゃあ……今は、その子が一人で留守番か?」
「はい」
「だったら、早く帰ってやりな。松尾が もし ぶっ倒れたら、俺が運んでってやるよ」
「……恐れ入ります」
その ご年齢で、まだ運転をなさるのですか……という率直な本音は、胸にしまった。
2本目を吸い終わった時、私はおもむろに切り出した。
「あの……工場長」
「何だ?」
「私は……今描いている次回作を最後に、絵本作家を辞めます」
「……直が創る会社に入るのか?」
直というのは、社長の通称である。彼女は、自社の子会社として福祉作業所を設立しようと計画しているのだ。(人材確保に苦戦しており、まだ具体的な時期は決まっていない。)
「そういうわけではありません。ただ……絵を描くのを辞めて、文学に本腰を入れたいのです。やはり『アトリエに篭る』という習慣は……私の身体には合いません」
「……まだ、幻を見るか?」
「見てしまいますね……何年経っても」
「……文学なら、落ち着いて書けるのか?」
「はい」
「……まぁ、本人が決めることだ。俺は何も言わんよ。ファンの皆様は、寂しがるだろうけどな」
私が返答に困っていると、工場長が「ほらほら!早く帰ってやれ!」と、促した。
私は、彼に深々と礼をしてから、社長を探し、彼女にも挨拶をしてから、帰路についた。
まだ見ぬ特例子会社に、自分が入るという発想は無かった。
私が入社したとして、敬愛する工場長と共に現場に立つことは おそらく二度と無いのだが、思い出深いあの場所で、再び働けるのだとしたら……この上ない歓びだ。まさに、夢のような話だ。
しかし、主治医と岩くんは反対するだろう。
(あんなに面白い仕事は、他に無いのに……!!)
本当は、私は今でも、あの場所が、涙が滲むほど恋しいのだ。
次のエピソード
【24.かつての自分】
https://note.com/mokkei4486/n/n7c165b5d354f