小説 「僕と先生の話」 18
18.帰路
僕を勧誘するのを ひとまず諦めた工場長が「あいつが倒れていないか見てくる」と冗談を言った直後に、先生が自分の足で堂々と戻ってきた。何故か、足元が白っぽい粉まみれだ。
「気が済んだか?」
「おかげさまで」
警備員みたいな堅苦しい動きで、妙に恭しくお辞儀をする先生。目の前の工場長に敬意を表するというより、それを見ている周囲の人に「この人は偉いのだぞ」と知らしめるような、芝居がかった動きである。本来なら新人の前でやってみせる「教育目的の寸劇」とでも、いったところか。
工場長も それに応えるように、ポケットに手を突っ込んで、踏ん反り返っている。
遊び心を忘れない、素敵な『老師』だ。
寸劇ではない挨拶を済ませると、僕と先生は帰宅することにした。
帰りは、やはり同じ道をひたすら歩く。
駅は遠い。
「先生、株主だったんですね」
「そうだよ」
「僕、すごく勧誘されましたよ」
「だろうねぇ……」
元気なら、流暢に際限なく物事や人物について語ってくれる先生が、今はやけに口数が少ない。覗いた現場で何かがあったのか、やはり体調が優れないのか……。
先生の歩き方が、いつもと違う。遅いし、上体がふらふらしている。両方の踵を引きずるように歩いている。
「先生、脚が痛いんですか?」
「いや……目眩がするんだ……」
「えぇ!?」
「すまない……もう少し、ゆっくり……」
「休んだほうがいいですよ!」
とは言ったけれど、歩道に沿って住宅や居酒屋、福祉施設が並んでいるばかりで、腰掛けられそうな物は何も無い。
「駅までは、頑張るよ……」
先生は歩くのをやめない。しかし、疲れきった輓馬みたいに、ふうふうと荒い息をして、どんどん前のめりになっていく。
「無理しないでくださいね……?」
僕の発言に、先生は応えない。ずっと黙っている。
「いや……?
違う、違う……」
やがて、ぶつぶつと、独り言を言い始めた。左耳に違和感があるのか、しきりに首を傾け、耳を触る。
「今、今、今……」
立ち止まり、やけに低い声で、しきりに同じ単語を繰り返す先生。耳を触ったり、眼鏡を外して目元や鼻を擦ったり、妙に力を込めて瞬きをしたり、落ち着かない。
「……大丈夫ですか?」
頭か顔の、どこかが痛いのではないかと思った。「目眩がする」と言った直後だし、明らかに様子がおかしい。
「そ、そ、その……その……と、と……」
顔を触るのはやめたけれど、先生が、どこを見て、何を言おうとしているのか、まったく解らない。相変わらず、左耳を気にしているように見えるけれど……。
僕は、先生が眼鏡を落としてしまわないよう、手の中から、そっと受け取った。一応「もらいますね」と声をかけた。
しかし、先生は、僕の呼びかけや眼鏡のことには、まったく応じない。
突っ立ったまま、相変わらず「違う」とか「今」とか「それ」とか、同じ単語を、ぶつぶつと低い声で繰り返している。右利きであるはずの先生の、左手がしきりに動き、耳や頭を触ったり、額の前に振り上げたりして、止まらない。
「わ、わ、わ……」
言葉にすらなっていない発声と、一定の間隔をおいて首を傾ける動き、左手の不可解な動きが、止まらない。
僕は、それを明確な意図のある動きではなく、意識障害を伴う病理的な発作であると判断した。……5分以上経っても治まらなければ、救急車を呼ばなければならない。
先生から受け取った眼鏡を、入れるケースが無いので、ひとまず僕がかける。自由になった両手を、先生の肩に添える。
意識が不明瞭な先生が転倒して頭を打たないように、座るよう促す。今は緊急時だから、地べたでいい。
何度も繰り返し声をかけて、肩を叩いて、やっと座ってくれた。
それでも、完全に意識が消失したら、座った姿勢を自力で保つことはできないから、アスファルトで頭を打ってしまう。
僕は、先生の右隣に膝をつき、先生の背中に手を当てたまま、時間を計るためにスマートフォンを取り出して地べたに置いてから、ずっと声をかけ続けた。
背中をさすってみたり、肩を叩いてみたりしながら、どうにか、意識が戻って言葉を返してくれることを願った。
アトリエで椅子を投げられてしまった時と、声色はよく似ている気がする。しかし、あれほど はっきりとした力強い声ではなく、不随意だし、もやもやした感じだ。あの時の先生は、明確な意思を持って僕を警戒していたけれど、今の先生は、僕の存在を認識することさえ出来ていないだろう。
癲癇の発作に関する、医療関係者向けの資料映像を観たことはある。それの一種に酷似しているとは思った。しかし、断定はできない。精神疾患による昏迷かもしれないし、脳の血管に異常を来たしているのかもしれない。
計測を始めてから2分が経過したあたりで、やっと先生が手を動かすのをやめ、首を振らなくなった。
発声をしなくなり、呼吸が整ってきた。
しばらく何も見えていないようだった先生が、視線を落とし、地面や自分の脚を見ている。自分がいつの間にか座っていることに気付いて、困惑しているように見受けられた。
「先生……僕が判りますか?」
僕の質問に応じて、僕の顔を見てくれた。
「え……どちらさまですか……?」
僕は、まずは会話が成立したことに安堵した。
夜道で、眼鏡を外してしまっているから、判らないだけかもしれない。それに、今は先生の眼鏡を、僕が かけているのだ。
僕は、先生に眼鏡を返した。
先生は、しばらくそれを手にしたまま、僕の姿を見ていた。
「どうして……」
「先生『目眩がする』って言った後、意識が飛んでたんですよ……!」
「なんと……」
冷静に眼鏡をかけて、もう一度 僕を見てくれた時、いつもの先生に戻っていた。
「驚かせてしまっただろうね、申し訳ない……」
「謝るようなことではありませんよ」
「……君のように良識のある人は、希少だよ」
「え……?」
「大抵の人は、私の発作を見て、笑うよ」
「そんな……!!?」
「それか、気味悪がって逃げてしまうよ」
「意味が解らない……」
「こんな風に、冷静に、側についていてくれる人は……稀だよ」
どうして、そんな話をしながら、この人は笑っているのだろう……?もう「慣れっこ」なのだろうか。
「ありがとう」
「いや……そんな……」
僕は、人間として当たり前の対応をしたつもりだ。
「ついて来てもらって、良かった」
何も言えなかった。
「いや、それにしても……」
先生が、何故かクスクスと笑い始めた。
「君が、私の眼鏡なんて かけているものだから、てっきり、また体外離脱でもしたのかと思ったよ!」
(また?)
元気に声を出して笑っているのは喜ばしいことだけれど……先生の、笑いのツボが解らない。
完全に意識が戻ったとはいえ、僕は先生が心配だったので、ご自宅まで きちんとお送りした。
先生が再び意識を失うようなことはなく、2人で、ずっと工場長の話で盛り上がっていた。
先生と別れてから、自分の家に帰るため地下鉄に乗っていると、飲み会終わりのサラリーマンらしきグループを見かけ、かつての勤務先で何が行われていたか、嫌な記憶が蘇ってきた。
ほぼ強制参加の飲み会で、先輩社員が後輩達に多量の飲酒を強要し、泥酔した彼らの奇妙な行動や発言を面白がって、その場で大爆笑しながら見ているだけではなく、動画や写真で残し、後日になってまで、脅しのネタや笑い草にしていたのだ。(特に、運動部経験者は、飲ませ方が酷い。)僕自身が、潰されて3日間寝込んだこともあったし、酒のせいで救急搬送されてしまった後輩も、見たことがある。
神経毒であるはずのアルコールが「遊び道具」であり、ヒトの意識障害が【娯楽要素】となる、実に嘆かわしい悪習が、地方や伝統校(大学)には、根強く残っているのだ。
それだけではなく、癲癇や薬物依存の患者に関する資料映像も、一部の心無い輩にとっては「おもしろ動画」なのだ。
もはや【尊厳】という概念そのものを持ち合わせていないかのような愚か者が、医薬品の流通に関与していたのだ。吐き気がする。
先生も、今日見たような発作で、これまで幾度となく笑いものになってきたのだろう。
ろくでもない国だ。
それでも、先生は将来を悲観したり、塞ぎ込んだりせずに、熱心に作品を描き続け、しっかりと前に進んでいる。ご本人は「一進一退」と言うけれど、それでも、立派だ。
僕は、ちっとも進んでなんかいない。
ただ、生かしてもらっているだけだ。
今の僕は、ろくでもない国を、憂いているだけで、何もしていない。何も出来ない。
次のエピソード
【19. 別世界】
https://note.com/mokkei4486/n/n1e99f7e0cba4
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