幸せに慣れていないと、幸せになれない②
前回の続き、「逆境を生き延びた人は、幸福に慣れていない」ということについてです。
子ども時代に逆境を経験した人は、順境(ものごとがすんなりと運ぶような境遇)に慣れていません。
そのため、「幸せになりたい」という望みがたとえ叶ったとしても、馴染みがないために手にした幸福をみずから手放してしまったり、遠ざけてしまったりすることがあります。
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誤解のないように書いておくと、「子ども時代の逆境」とは、単純に「毒親」を指すものではありません。
一般的に「毒親」とされる親の対応(虐待やネグレクトや過干渉など)は、もちろん逆境に違いありません。ただ、「子ども時代の逆境」のすべてがそうではないということです。
たとえば、仕事やその他の事情で親がとても忙しく、子どもとしっかり向き合う時間を取れなかったという場合です。
下の子を妊娠していてつわりがひどかったとか、家族の誰かが闘病中であったとか、離れて暮らしていたとか、自然災害によって避難生活を余儀なくされていたとか、やむを得ない理由で「子どもが望むような応答ができなかった」というケースは少なくありません。
そこに親の悪意はなく、まして毒もなく、愛情はたしかに存在していたのですが、「子どもにとっては逆境であった=傷つきの経験としてとして心に刻まれてしまった」ということが残念ながら起こり得てしまうわけです。
あるいは子ども本人がケガや病気をして治療を受けた場合、その経験が「医療トラウマ」となり、結果的に傷つきとして心の底に残ってしまうということもあります(治療のために押さえつけられた、注射が怖かった、ひとりぼっちで入院した…等)。その場合も、周りの大人に悪意はなく、すべてはその子を助けるために施された処置であったわけですが、ただ、大人の事情が理解できない子どもにとってはそれも「逆境の経験」として刻まれることがあります。
いわゆる「毒親育ち」の生育歴を持つならば、それはもちろん「逆境」に当てはまります。愛着の問題を抱える場合もそうです。
しかし決して「子ども時代に逆境を経験したこと」=「毒親育ち」なのではありません。子ども時代に経験する「逆境」には、実にさまざまなパターンがあります。
ここの部分を誤解してしまうと、自分の傷つきと向き合うことが難しくなり、かなり遠回りをしてしまいます。「自分は子ども時代に逆境を経験したかもしれない」と思うことが、イコール「親から愛されていない子どもであった」と認めることになるからです。
それは自分という存在の根源に関わることであり、強い恥の意識にも結びつくものでもあり、「自分の傷つきを認めると親と自分を否定することになる」という恐ろしい考えを生むものでもあるため、無意識に「自分の傷つきを認めない」という防衛がはたらいてしまい、傷つきと向き合うことが遅れてしまうのです。
「子ども時代に逆境を経験した」ということと、実際に親の愛情があったかどうかということとは、まったく別の話です。
避けられないさまざまの事情があり、その事情を理解するには幼すぎる子どもにとっては、その環境で生きる日々が「結果的に逆境であった」ということです。
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子ども時代に逆境を生き延びたということは、つまり「戦時下を生き延びたようなもの」です。
無力な子どもにはどうすることもできない過酷な環境があったということ。それはまさに「戦時下」と同じような状況です。子どもは逃げることも戦うこともできない、ただただその環境を、命からがら生き延びるしかありませんでした。
その子が成長して大人になったとき、世界はもはや戦時下ではありません。
たとえば殴ったり罵倒したりする親と暮らしていたとしても、成人して家を出れば、その親とは離れられます。同居していたとしても、体格や力は年老いた親を超えているので、反撃しないまでも無視するなり聞き流すなりすることはできます。医療トラウマを負ったり大災害の被災者であったとしても、すべては「終わったこと」として新しい人生を始めることは可能です。無力な子どもであっても、大人になれば、自分の選択で戦場を離れることができるわけです。
しかし、逆境を生き延びた子どもは、大人になってもずっと戦時下のような日々を生き続けています。
激務といわれるような仕事に没頭しすぎてプライベートが悲惨なことになっていたり、パートナーとの関係を育むことができず浮気や喧嘩でみずから壊してしまったり、怒りに近い正義感から他人を批難したり、ほとんど強迫的に学ぶことや努力がやめられなかったり、のんびり休むことに罪悪感があったり、自分を大切にしてくれない人を追いかけたり。
頭では「もう子どもの頃のような環境じゃない」とわかっていても、逆境の経験が心とからだに深く刻まれているために、「生き延びなければ」という強迫的な思いを止めることができません。
逆境を生き延びた人は今なおこのときも、銃弾が飛び交い、焼夷弾の雨が振るような日常を生きています。いつ地割れがするかわからない不安定な大地に立っています。見えない檻の中で監視される捕虜のように脅えています。安心できるはずの家に虎がいることもあります。決して気を抜くことなく、生きるか死ぬかの日々を必死で生きているのです。
逆境しか知らない人は、たとえ幸せが訪れたとしても、それを幸せだと認識できません。あるいは一時的に幸せを感じたとしても、すぐに居心地が悪くなってしまいます。戦時下にいるという前提で生きているために、「むしろ幸せは生存を脅かす邪魔なものだ」とさえ思うからです。
こうした状態から抜け出すためには、頭(脳)ではなく、心とからだに「もう戦時下ではないよ」と伝える必要があります。思考や理屈ではなく、体感としての安心を味わい、覚えていくことです。
望みを抱き、それを叶えることは、幸福な人生を送るためにとても大切なことです。
でもそれよりも大切なのは、「幸せを感じるための感受性があること」です。
どんなごちそうも、それを味わう舌と味覚がなければ美味しいと感じることはできません。どんな美しい調べも、それを聴く耳と、美しい調べだと感じる心の余裕がなければ味わうことはできません。
逆境を生き延びてきた人は、危険を察知して警戒するセンサーは発達していますが、幸せを感じ味わうセンサーは鈍く、ときには錆びついています。幸福センサーを使う機会がほとんど使うことがなかったからです。幸福センサーを持っているせいで、かえって絶望してしまうことがないように、あえて感覚を鈍感にしたり、麻痺させていることもあります。
どんな望みを抱こうと、どんな幸せが訪れようと、それを感じる心とからだがなければ、その幸せは存在しないのと同じです。
逆説的ですが、だから「幸せになるためには、幸せに慣れておくことが大切」なのです。
●「心地よさ」の機会を増やす
幸せに慣れるためには、まず「ささやかな心地よさ」を感じられるようになることです。
とるに足らないようなささやかなことの中にも、「なんだかいい感じ」「うん、悪くないね」と感じられることがたくさんあります。そうした「ささやかな心地よさ」を感じることを丁寧に積み重ねていくことが大切です。
たとえば美味しい食べ物やお酒を味わうとき、今まで全くそうしたものと縁がなかった人が口にしても「美味しい…のかな?」と思うくらいで、味の違いはわからないものです。ウィスキーを飲んだことのない人がいきなり20年物のスコッチを飲んだところで、その本当の美味しさを味わうことはできません。
ふだんからいろいろな種類を試してはじめて「私はこれが美味しいと思う」という評価軸が、舌と味覚につくられます。初めて口にする美味しいものよりも、経験を重ねた上で出会った美味しいもののほうが、その美味しさがより美味しく感じられ、輪郭から深みまで余すところなく味わい尽くせるものです。
幸福も同じです。
ふだんから心地よさを感じていなければ、自分にとっての心地よさが何なのか、幸せとはどういう感じなのか、わからないものです。そもそも今自分に幸せが訪れているのかどうかも、知ることができません。
でも、かすかな心地よさも逃さず感じられる感受性を育てれば、幸福の予感をいち早くキャッチすることができます。自分を傷つける人やリスクのある状況に近づかずに済みます。小さな選択のひとつひとつを「自分にとっての幸福はどちらか」という基準ですることができるようになります。そうして導かれるように幸福と出会うことができるようになるのです。
だからまず、たった一度きりの強烈な幸福感よりも、ささやかな心地よさを感じる機会を増やすことが大切です。
これはいわば「からだを幸せに慣れさせる」方法です。頭で言い聞かせるのではなく、心地よさというものにからだを馴染ませるということです。
からだというのは、反復するほどに忘れにくくなります。長いあいだ逆境を生きてきた人ほど、絶望や孤独をくり返し経験したせいで、ネガティブな信念が手強く根付いているものです。その深く根付いたネガティブな信念を上書きするためには、ささやかな心地よさをくり返しからだに経験させ、不幸ではなく幸福の感覚をインストールすればいいのです。
逆境を生き延びることが日常になってしまっている人にとっては、「そんなこと?」と思うかもしれません。
逆境の中で鈍くなってしまった幸福センサーは、えてして「強烈な幸福感」と求めがちです。彼らの幸福センサーの目盛りは、ゼロか最大か、そのどちらかしかありません。強烈な幸福か、あるいは絶望か。その人の世界にはそのどちらかしか存在しないことになっています。
だからこそ、目に見える評価や物質的なものに価値を感じたり、身体を壊すほど頑張ってしまったり、リスクのある人や物事に惹かれたりするわけなのですが、それでは幸せの感受性は育ちません。
もっと「人生が激変した実感」が欲しくなるかもしれません。人生が180度変わるような劇的な瞬間を求めているかもしれません。でもそうした強烈な幸福感は結局のところ「依存心を抑える一時的な蓋」となるだけで、長続きはしないのです。
ほんの一瞬でも心地よさを感じることができたなら、その瞬間、からだは戦時下から解放されています。ほんの一瞬、ほんのひとときだけれど、からだが安心を味わうことができたということ。そんな「ほっとするひととき」を積み重ねることで、揺るぎない幸福感がからだに染み込んでいきます。
生活の営みのそこかしこに、ささやかな心地よさを感じる機会がたくさん隠れています。
たとえば通りすがりにふわっと香る金木犀。たとえばひと息ついたときに飲む温かいお茶。
同僚との何気ない挨拶。顔も知らない誰かの気遣いの跡。ちょっとした充実感。淹れたてのコーヒー。炊きたてのごはん。焼きたてのパン。ふわふわしたペットの触り心地。楚々と咲く草花。暮れなずむ空のグラデーション。肩越しに吹き抜けた風の爽やかさ。深呼吸して腕を伸ばしたときの、肩にじんわりと血が巡る感じ。眠りにつく直前の、沈み込む布団の柔らかさ。
暮らしのあちこちに落ちている「心地よさ」の中から、あくまでも自分が心地よいと感じるものを探し、拾い集めること。
何の変哲もない一日の中にでも、探せば必ず見つかります。「ぐっすりよく眠れた」「いつもよりよく噛んで時間をかけて食事をした」だけでもいいのです。自分にフィットした心地よさを、根気よく、しつこく探すことです。
何よりも、自分自身の幸福のために。
●空白を怖がらない
からだが幸せに慣れてくると、「心地よさを選んでもいいかもしれない」というシフトが起きます。
逆境で育ち、戦時下を生きてきた今までは、「油断してはいけない」「気をを緩めてはいけない」という張り詰めた警戒センサーが作動していました。
でもからだに心地よさがインストールされてくると、「もうそろそろ気を抜いてもいいんじゃないか」という気持ちが湧いてきます。「今はもう戦時下ではないのだから」とからだで安心を感じられるようになり、警戒センサーの必要がなくなってくるからです。
「そんなに頑張らなくてもいいかな」と思えるようにもなります。自分に対して抱いていた根源的な恥の意識や自己否定感が弱まることで、「頑張らなくても自分は存在していていいのだ」という感覚が自分の内部に生まれつつあるからです。
また、逆境を生き延びた人の中には、仕事や生活はそれほど忙しいわけではないけれど頭の中だけはずっと忙しいという人もいます。四六時中、好きな人が自分をどう思っているかばかりが気になったり、優れた何者かにならなければならないと焦ったり。思考で頭の中だけが忙しく、意識がからだを抜け出して彷徨い、からだの感覚がおろそかになってしまっている人です。
こうしたタイプの人も、からだで感じる心地よさを積み重ねることによって、意識がからだに着地し、焦るばかりの気持ちが落ち着いてきます。からだの感覚と頭の思考とが、一致するようになってきます。
そうしてある日、「何もせずにいる一日」が訪れます(あるいは「何もせずに過ごす数時間」かもしれません)。
仕事のことも自己実現のことも将来の目標のことも、何も考えない一日。資格や勉強のことも、時事問題のことも、ひとまず棚上げしていい一日。自分を縛るルールから、感情を抑圧する重さから、生き延びなければならない戦争から、あらゆるものから解放される一日。焦ることなく、自己否定の沼に落ちることなく、のんびりと休むことを自分に許せた一日。
時空にぽっかりとできたエアポケットのような一日が、たまたま訪れます。
ふつうなら、人生のボーナスのような、神様からのプレゼントのような、ラッキーな一日です。何をしようか、いやいや何もしないでゆっくり贅沢に過ごそうじゃないか、と思います。
でも逆境を生き延びてきた人にはそうは思えません。
目の前に横たわる空白は、何よりも恐ろしいものに思えます。近づいたら飲み込まれてしまうブラックホールが口を開けて待ち構えているかのようです。逆境を生きてきた人にとっては、「すべてから解放される自由な時間」が何よりも脅威に感じられることがあるのです。
なぜなら、何もせず、何も考えずにじっとしていると、心の蓋が開いてしまうからです。
「助けてほしい」「わかってほしい」「愛してほしい」という泣きたいくらいの叫びをずっと溜め込み、ぎゅうぎゅうに圧縮し、蓋をして抑圧してきた心の穴から、依存心たちが噴き出してしまうからです。
誰に強制されなくても、他人の目が気にならなくなっても、自分の内側からの叫びに怯えるのが、逆境を生き延びた人たちです。
「あれもしなきゃ、次はこれもしなきゃ」と忙しくしていたときは、心の叫びなど聞かずに済んでいました。忙しさのエネルギーが蓋となって、依存心に蓋をできていたからです。
頭脳と身体を酷使し、疲れ果てて泥のように眠る日々には、怖いものなどありませんでした。溜め込んだ依存心のことなど忘れていられました。ないことにできていました。ただただ、その一日を生き延びるより重要なことなどなかったからです。
それがいざ空白を前にすると、不穏な気配ばかりが感じられてきます。
心の井戸の底からもやもやと湧き上がってくる寂しさ。全身が凍えるような孤独。喉の奥で大きくなる悲しみ。突き上げるような染み渡るような、得体のしれない感情が、無意識と意識のはざまに次々と湧き上がってくるのです。
本当なら、この「得体のしれない感情が湧き上がったとき」こそが、癒やしのチャンスではあるのです。心の穴の奥底にあったものが表面に浮上してきたときにこそ、それを取り扱うことができるというもの。心を癒やすまたとないタイミングなのです。
とはいえずっと溜め込んできた感情と向き合うのは、誰だって怖いものです。そもそも依存心を表に出さず溜め込むことにしたのは、「応えてもらえなかったから」なわけです。
泣きたいとき、助けてほしいとき、甘えたいとき、愛してほしいときに、その気持を共に抱きしめてくれるはずの存在がいなかった。あるいは助けてと伸ばした手が振り払われてしまった、背を向けられてしまった、押しのけられてしまった。そうした絶望の経験があったからこそ、溜め込まれた依存心です。
そんなものを、そう簡単に表に出すわけにはいきません。「愛してほしい」という気持ちをまた出してみて、そうして拒絶されたら……今度こそ立ち直れない。ほんとうに希望のない人生を歩まなければならなくなる。無意識はそれを怖がっているのです。
依存心を溜め込んできた人にとって、依存心と向き合うことはつまり「絶望と向き合うこと」を意味します。そこには脅威しかありません。絶望と向き合うというもっとも恐ろしい事態を避けるために、忙しい日々を過ごし、戦時下の戦士のようにふるまってきたわけです。
そうして結局、空白は消し去られてしまいます。「やっぱり何かしよう」「そういえばあれも片付けておこう」と思いつき、行動が始まります。あるいは得体のしれない感情が不安にかわり、不安でいっぱいになった頭の中はたちまち忙しくなります。
逆境を生き抜いき、今もなお逆境を生き延びようとしている人にとって、「空白」ほど恐ろしいものはありません。
心地よさをからだにインストールし、幸せのセンサーの目盛りが増え、安心感を感じられるようになったあるとき、その空白はやってきます。溜め込んでいた依存心が浮上してくる空白です。
依存心と向き合うことに、からだがある程度もちこたえられるようになったからこそのことなのですが、やはり最初は戸惑います。無意識に脅威を感じ、強く抵抗することもあります。
でもそこで、以前のように忙しさで日々を埋めてしまったら、元の木阿弥です。依存心が重い蓋で抑圧されたら、癒やしのチャンスがなくなってしまいます。
からだだけが心地よさを味わってしまったせいで、前より疲れを感じるようになってしまうかもしれません。それこそ本当に倒れたり、病気になったりすることもあります。
心地よさを感じる機会を増やそうとしている中で、漠然とした焦りを感じたり、半ば強迫的に「やっぱり忙しくしなくては」と思うようなときには、注意が必要です。
心地よさを積み重ねているはずなのに、なんだかイライラする、気分が晴れない、うつうつとする、落ち着かない気分になる、身体が重い、疲れやすい……と感じたら、それは「溜め込んできた依存心が浮上してきたサイン」です。
決して「甘えて怠けていたから自分がダメになった」のではありません。ものごとが良くないほうに進んでいるのでもありません。
逆境を生き延びてきた人は、かなり敏感な警戒センサーが備わっているので、「なんとなく良くない状況かな」と感じただけでたちまちセンサーが発動してしまいます。そうして「心地よさなんて追求するんじゃなかった!」と自分に鞭打つような生活に戻ってしまうのです。
これは、傷つきを抱えた人がぶつかる大きな壁のひとつでもあります。
本来、心地よさを積み重ねるような生活を送っていて、人生が破滅するようなことはありません。
たとえばドラッグに耽溺するようなことは、使用したそのときに快感が恍惚感があったとしても、使用後は頭痛や吐き気、倦怠感に襲われたり、食欲不振になったり、心理的には罪悪感や無力感が強くなったり、そもそも世間に隠れて摂取するものであるので、それは本当の「身体の心地よさ」ではないわけです。
からだに正直に「あ、なんかいい感じ」「ちょっと気持ちいいかも」と感じることを積み重ねたとしたら、悪い方向に向かうはずがないのです。
でもなぜかうまくいっていない気がする、もやもやする、元の忙しさに戻らなければならないと焦る……のであれば、それは「依存心が浮上してくる気配」を不穏に感じているのかもしれません。
そしてそう感じたとき、そこにはきっと何らかの「空白」があるはずです。
逆境を生き延びてきた人が幸せに慣れていくためには、「小さな心地よさ」を感じる機会を増やすことがまず大切です。
それを積み重ねていく中で、元の生活に戻りたくなることがあったり、「こんなことしても無駄じゃないか」と抵抗感を感じることがあれば、そのときこそが「未解決の依存心を癒やすチャンス」です。
ただし、ひとりでは難しい場合も少なくありません。
抑圧していた依存心が大きく強いものであるほど、噴き出したそれに自分自身が圧倒されてしまうこともあります。その圧倒された経験が、新たなトラウマとなってしまったら、今度はもっと大きな穴にもっと重たい蓋をしなければならなくなってしまいます。
心地よさを感じる日々に抵抗を感じ、抵抗のほうが強くなってくるようなら、プロの力を借りることも大事です。信頼できるカウンセラーやセラピストと共に、安全な環境の中で依存心を扱っていくことです。
何しろ溜め込んできた依存心は、マグマなのです。ひとりで処理するには危険すぎるのですが、だからといってそんなにも危険なものをまた心の穴に隠すのもいけません。誰だって爆弾を抱えて生きるわけにはいかないのです。
すべては「幸せになるために幸せに慣れること」という目的のためなのですが、迷ったり抵抗を感じたり、停滞してしまったと思うようなときには、誰かの力を借りることも大切なのです。
そしてその「助けを求めて力を借りる」という行動そのものが、傷つきを癒やす一歩にもなります。
人がその人生を生きるということは、それそのものがひとつの大きな仕事です。
その仕事とはつまり、この自分を幸せにすること。
社会貢献よりも、環境を守ることよりも、人の役に立つことよりも、どんなに立派な職業よりも、誰を愛することよりも、
それは大切なことなのです。
●シリーズで書いています