バラと錠剤(7/15)〜アメリカ人との交際の物語

大学 2 年の夏休み、当時まだタクの恋人だったエニーが香港から日本へ遊びに来ていた時のこと。その一年前にも日本を訪れ、ニックのマ ンションで中華料理を振る舞ったことがあり、彼らとはそれ以来の顔なじみだ。飽きっぽいエニーは、1、2 年ペースで転職していた。世界トッ プクラスの国際競争力を誇る香港だけあり、転職も用意にできるのだろうか。転職の合間に約 2 ヶ月、日本に滞在している最中で、 エニー も一緒に彼らと恒例のキャンプへ行くことになっていた。 土曜日キャンプ当日、どちらかといえば昼に近い時間帯に目が覚めると、とりあえず、タクはケントの携帯電話に確認のメールを打った。

『何時頃にキャンプ場に向かえばいい?』

しばらくすると 『Whenever you want to.』

端的な返信。
キャンプ仲間は週末に働いている人も多かったので、そんなものだろうとさして疑問にも感じず、タクはそれ以上の詳細を求めなかった。時 間にもルーズなことを頭の隅にとどめつつ、夕方にでも家を発てば、誰かしらいるだろうとも思っていた。できれば、西武秩父駅でケントかキ ャシーと合流し、一緒にキャンプ場にでも行ければいいなと思いつつ、とにかく、気楽に考えていた。 香港の景色といえば、高層マンション、もしくは、人が住めそうもない山。キャンプなんて行える場所などなく、エニーにとっては、初めてのキ ャンプ。お酒やつまみをぱんぱんに詰め込んだリュックにテントに寝袋、エトセトラ。エニーがいる手前、タクはいつもより念入りに準備をし た。そのせいでいくぶん足取りは重たかったけれど、20 時近くには西武秩父駅に到着した。
帰国していった友達から譲り受けたテントを持参していたものの、自力で建てたこともなく、建て方もわからない。もしものことを想定すると、 素人二人きりでキャンプ場へ向かうのは不安だった。今、誰が何処にいるのだろう。不意に現状を把握したい衝動に駆られたタクは、携帯を 掴み、駅を出るなりケントに電話した。繋がらない。まめに充電しないケントの携帯電話は繋がらないことも多いけれど、嫌な予感が込み上 げて来た。すでにキャンプ場へ着いているので、電波が届かないだけかもしれない。恒例のキャンプ場は、電波が悪かった。豆電球の光ほ どの、凸凹な希望を見出しつつ、ジョンの携帯電話にも掛けてみた。

「Hello?」

「今、どこにいるの?」

「Home. Why?」

ぶっきらぼうな返事。
疑念と無関心の入り交じったジョンの表情がタクの脳裏をよぎった。感情が幼児なみに現れやすく、起伏も激しいジョンらしい返答といえば返 答だった。精神的に追いつめられると、他人を攻撃するタイプと、己を追いつめるタイプ、大雑把に二種類、起伏の激しさがある。ジョンは後 者だった。タイミングが悪かったかなと思いつつ、間髪いれず、次の質問を投げかけた。

「あれ、キャンプに参加しないのかい?」

「明日、仕事があるから、それが終わり次第そっちに行く」

「そういうことか。ケントに電話しても繋がらないんだけど、参加する人の電話番号を、教えてくれない?そうだ、キャシーの、知ってるよね?」

「ちょっとまって...一分後かけ直して」

「了解」

しばらくして掛け直すと番号を読み上げてくれた。電話を掛けた。電波は届く場所にいるものの、一向に出る気配がない。留守番サービスセ ンターにも切り替わらないので、一度電話を切り、もう一度掛け直してみる。やはり、でない。
千倍の顕微鏡レンズで、1 日を 1 秒に凝縮した早送りで、ガン細胞の分裂を観察するような走馬灯のように、僕の心臓の中心から嫌な予感 が増幅するのを感じ取った。それでも、「お兄ちゃんなら大丈夫よね」と、ママが説得するような口調で、「EASY COME EASY GO」とタクは心 に言い聞かせた。キャシーの着信履歴に僕の番号が残っている訳だし、何とかなるだろうと思い込むように努めた。

西武秩父駅からお花畑駅に向かう途中まで、駅と直結した屋根付きの商店街がある。その道の中央に点在している腰掛けのないベンチの ような木材でできた長椅子に腰を下ろした二人。さすがは自然に囲まれた駅だけのことはあり、もうすでに見渡す限りの店は閉められ、人の 気配もなく、もの寂しい雰囲気が漂っている。手持ち無沙汰になったタクは、リュックから適当につまみを取り出した。

「そのうち、誰かここを通り過ぎるだろうから、それまで暇だし、ここで飲んでいよう。いつもこんな感じだから気にしなくていいよ」

僕はそうエニーに告げ、お酒を飲みだした。あまり飲めないし、もともと飲む習慣のないエニーも珍しくお酒に手をのばしていた。「10 分だけ 待って」といい放ち、1 時間ぐらい平気で人を待たせるエニーは、サービス残業させられた翌日、誰はばかれることなく堂々と社長出勤をする ような人でもある。それでも、あまりの予想外の事態に、苛立ちと不安の板ばさみにあっていた。タクの心の奥底にしまい込んだつもりでいた 感情を見透かされ伝播していた。
9PM が過ぎ、10PM を回った。僕の携帯電話は未だ無言のまま。オーストリアで、7 ヶ月間も同棲し、遠距離になっても、ほぼ毎晩のように、 電話やメッセンジャーで数時間は会話が続く、タクとエニーの間柄だった。それまでタクは、気まずい雰囲気など味わった記憶はないけれど、 1 時間、2 時間と時間が経つにつれ、じわじわと、重たい空気が漂い場を支配しだした。お酒を飲んで気は緩んでいるはずなのに、口数は減 っていた。それとなく、気まずさを紛らわすため、あたりを見渡していたタクは、西武秩父駅改札のほうに視線がいくと、コンタクトを付きの目 を思はず細めた。遠いのではっきりと見えないけれど、電光掲示板に他の列車と区別するため、わざわざ赤文字ではっきりと終電車と書い てあった。心臓の鼓動を感じ取った。錯乱した感情を制御しなくてはならない、と自分自身に言い聞かせつつ、予想以上にはやく決断をくださ なくてはならない、と悟る。ひとまず、キャンプ場に行く終電車の時間を調べる必要があると思い、お花畑駅に向かった。10 分もしないうちに 二人は、お花畑駅に着いた。

「5 分後に、下りの最終電車がまいります」
と駅員。

このキャンプ場行きの終電を見送った後でも、まだ西武秩父駅から家には帰れる。二人でキャンプ場に行くのは危険だ。5 分が何の気休め になるのか。3 時間近く待ったんだ、あきらめよう、そう決断したタクは、言いづらくて胸か一杯だった。エニーに「帰ろう」そう伝えようと頭の中 で反芻していた矢先、

プルルルル プルルルル

見覚えのある番号。キャシーからだった。

「今、電車で西武秩父駅に向かってるところよ」

「もうすぐお花畑駅からの終電だよ。間に合わないじゃん。どうするの?」

「西武秩父駅からみんなでタクシーに乗るわ」

とりあえず、来るのかと、安心した。

「わかった。今、終電来てるから、それに乗ろうと思う」

電話を切った。キャシーの呂律具合からみて、電車の中でお酒を飲んでいるのがわかった。その他いろいろタクに伝えたが、早口で呂律も 悪く、タクは要点がつかめなかった。キャシーは、ウクライナ生まれで、カナダモントリオールに 6 歳の頃に移民した。ウクライナ語とフランス 語とスペイン語も堪能だからか、ホイットニーやケントの英語より聴き取りずらかった。 すでに西武秩父駅とお花畑駅の中間地点、商店街の入り口付近まで引き返していた。

「さっき行った駅に戻って、終電車にのってキャンプ場に行くぞ」

エニーは何が起きているのか、つかめてない面持ちをしていたが、そうこうしていられない。重い荷物を抱え、足早に駅を目指した。一つしか ないこじんまりとした改札に行くには踏切りを越えなくてはならない。踏切りを渡っていると、すでに電車が来ているのが見えた。やばい。とに かく急いだ。しかし、想いは届かなかった。
悔しさとともに、妙な諦めの境地が沸きおこり、確固たる思いが込み上げて来た。

「帰ろう。タクシー代なんて、払えないだろ、僕たちの経済状況じゃ。ここから遠いんだ」

楽観的で滅多に怒ることのないエニーが、怒りを露にした。同棲中、2 回しか喧嘩をしたことがない。

「ありえない。あなた、むかつかないの?3 時間も待たされたあげく、連絡も来ず、そのせいで電車ものがし...むちゃくちゃじゃない」

「むかつきはしない。しょうがないだろ」

タクの返答に納得いかず、怒っていないタクに怒りの矛先が向けられた。タクも、どちらかといえば、犠牲者なのに...エニーには、予想外の 態度だったのだろう。タクの煮え切らない態度を目の当たりにし、エニーもエニーで行き場のない怒りを抱えていたが、タクはタクで行き場の ない、釈然としない辛さが込み上げてきた。無言のまま、岐路への旅路に着いた。 ケントから、電話がかかって来た。無視。キャシーからも、電話がかかって来た。これまた無視。もちろん、電話をとるのも癪に感じていたこと もあるが、何よりも、エニーが見ている手前どの面さげて、電話に対応すればいいのかわからなかった。
15 分ほど経過し、最終の下り電車とすれ違った。真ん中付近の車両に、10 人ほどはいたか、外国人グループが楽しそうに会話をしているの が目に入った。ケントもキャシーもいた。エニーには気付かれたくない光景。気まずさを感じたが、悟られないよう、平然を装う。エニーは、不 貞腐れた態度で窓の外を見ているが、どことなく遠くを見ているような視線。エニーは気付かなかった。
少し時間が経ち、ケントにメールを打った。

「We are on the way back home.」

携帯電話の電源を切った。

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