見出し画像

どうでもいいこだわりを認め合う

「ひゃっ」

とたぶん30歳独身男性が出してはいけないような声を出してしまうときがある。「どこからそんな声出てきたの?」とsiriに尋ねても、「私にはどうお答えすればいいのかわかりません」と一蹴されてしまうような声だ。

冷たい便座に座ったときである。

尻に冷たい便座が当たった瞬間、siriにも認識してもらえないような声が出る。「しり」だけに。こんな冷たいだしゃれが出るほど、便座が冷たいのだ。よっぽどだ。

「全ての便座よ、どうかあたたくあれ」と思うのだ。世界平和でも祈るかのように、神にすがってしまう。便座があたたかいことが尻にも、心にも平穏をもたらすのだ。もしかしたら世界平和への第一歩は全ての便座をあたためることから始まるのかもしれない。と世界平和について真面目に考えてしまうほどだ。よっぽどだ。


1日に例えば5回トイレに行くとしたら、尻と便座も同じだけ触れることになる。80年生きるとしたら、146,000回も尻と便座が触れることになる。146,000回も「ひゃっ」という声をあげて、siriに一蹴されてしまったら、ぼくはもう引きこもりになってなってしまうだろう。

もちろん男だから、立って用を足すことだってある。だから実際には146,000回よりは少ないかもしれない。でもそもそも立って用を足すのは、便座が冷たいかもしれないという恐怖心があるからだ。パートナーに怒られることよりも便座が冷たいことの方が嫌なのだ。恋は冷めても、便座は冷めないでくれ。頼む。


生活を共にすることは、こんなどうでもいいこだわりをお互いが認め合うということでもあるのだと思う。「便座が冷たいのが嫌」なんて他人にとっては本当にどうでもいいことのはずだ。でもぼくにとってはこだわりで、それを認めてくれる人とでないと一緒に住めないような気がしている。

30代に入って結婚を意識してから、誰かと生活を共にすることを考える機会が増えてきた。まだ一度も同棲をしたことがないわけだが、以前はシェアハウスに住んでいた。

ぼくのどうでもいいこだわりと同じぐらい、みんなどうでもいいこだわりを持っていた。

どんな鍋でもポン酢で食べたいとか、兵庫の田舎に住んでいるけど大阪に住んでいると言いたいとか、ビールはキリンがいいとか。人それぞれ何かしらのこだわりがあった。

それを「あなたはこうしたいのね」と認め、押しつけあうでも、やめさせるでもなく、ただただ見守ってくれる人が多かった。そういう関係性だったから居心地が良かった。

誰かと2人で同棲をすることになっても、そういうお互いのどうでもいいこだわりを認め合える関係性でありたいなと思う。


ぼくにとって便座をあたたかいままにしておいてくれる人は、心があたたかい人なのだ。便座を冷たくしてしまう人とはきっと関係性も冷えてしまうだろう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?