自閉(症,スペクトラム)あるいはアスペルガーをめぐる問題

「もう嫌だ」とタイトルに書いては消して、
「殺してくれ」とタイトルに書いてはまた消して、
「人生めっちゃ楽しいどぇ~~~すピースピース」と書いては消して、をずっと繰り返している。

かなりセンシティブな話になるけれど、こういうことを本当は世の中に発表して、誰かに読んでもらいたかった。
かなり幼い時から、ずっとそう思っていた。
今、俺は文章の力も、それを下支えする思想も、人を動かすだけのものは持ち合わせていないとはっきりわかったから、これからはその両方を、もう2段階も3段階も上に持っていかなければならない。
だから書く。こうして練習として、壁打ちみたいな、落書きみたいな形で、思ったことをまずは走り書きしていく。
これをそのうち、正しく四角くまとめて、本にする。
そうして小さくまとめて少しだけ紙に刷って、街角とかイベントで売る。
読んでもらうことが目標だから、紙代さえも割るくらいのクソみたいな安価で売ってやる。

職業柄、自閉の子によく授業をする。
べつに特別支援の専門家でもなんでもないのだが、やけに偏った特性とか、ひねて一般には理解されがたいような性格した生徒ばかりお鉢が回ってくる。どうも取引先(仕事をくれるところ)は俺を「とりあえずこいつに任せておけばだいたいどんな子でも教室に居着かせてくれる」と思っているようで、気が付いたら、俺の受け持ちは3割くらいが「たんぽぽ学級の方から来ました」みたいなことになっていた。
そういう子は、とにかく「普通」がわからない。わからないし、わからなすぎて小学校だの中学校だので怒られまくって、鬱憤溜まって人の提案にまず否定から入る(俺はこういうのをヤダヤダ期リターンズと表現している)とか、そうでなければ何とかこっちをやり込めようとして、必死で知恵を絞って「やらない理由」を並べ立ててくる。
分かりやすい例は、「俺の授業には出席するが、クラスの交流会には・絶対に・何があっても・何と言われようとも・出席しない」というので、大人の側がどんなに「将来のヒトヅキアイガ~」とか「コミュニケーションノウリョクが~」とかもっともらしい理由をつけて「なんだかんだタノシイヨ~」と餌ぶら下げて誘っても「ヤダヤダ」か「デモデモダッテ」で平行線をたどり、結果お互いのHPとMPを無駄に減らしただけで終わりみたいなことを何度も見たし、経験してきた。

で、別に俺はそれが悪いことだとも思っていない。
この感情(ヤダヤダ期リターンズorデモデモダッテ状態の根)に名前を付けることは極めて慎重にならないといけないと思っている。性格的な言葉にしようとするとどうしても人格否定の気を帯びてしまうからだ。

・怠惰
・臆病
・反抗的
・生意気
・社交性のなさ etc…

当人の側からすれば「うっせえ」としか思えないような言葉はいくらでも思いつく。そして、自閉でない、いわゆる「普通・定型・健常」の方々は、彼らをいくらでもこういう表現で説明できてしまうのが、また見ていてしんどい。

そんでそうなると、こっちも「自閉の子をどうにか普通に」みたいなことを考えてしまう。
これはまずそもそもの目標設定がほぼ無理で、自閉でないみなさんに向けて例えるなら「手漕ぎボートで地球を一周してください」くらい厳しい。
なにせ他人に対して興味がそもそもないのだ。細かい定義や要件はいろいろあるが、自閉は読んで字のごとく、「自分で」「閉じている」ので、その生活に他者が必要となることを理解することが非常に難しい
この理解をさらに複雑にしているのは、知的障害みたいに後天的にどうにかなる確率がものすごく低いというわけでもなく、ある日「学習」してしまって、うまく社会適応できるだけのスキルを身に着けられる子がいないわけでもないということ。それゆえに、自閉症の子については、周りの大人がいつまでたっても「この子にはまだ可能性があります!」と夢を捨てきれなくなることが多い。
でも、そこの、ご主人、奥さん、先生、どんなに頑張ってもその子はあなた方が期待するような「おめめキラキラの夢と希望に向かって進むげんきなよいこ」にはなれないと思いますよ。

自閉症をめぐる問いは、自閉スペクトラムという学説上の説明用語からもわかる通り、明確に「AであるからすなわちBと言ってよい」みたいな区分けがしづらい。それに加えて、自閉ではあるんだけれども他の知的な部分についてはほぼ一切問題のない「高機能自閉」というのもあって、「パッと見日常生活を送れているように見えるけどそれは部分的にしか見てないからそう思えるだけで、実は当人は思わぬタイミングで辛くなったり困ったりしている」みたいなことも起こる。それが自己理解と受容もできてて、言葉でちゃんと他人に説明できればまだいい方で、だいたいは(さまざまな理由から)他人に伝わらずミスマッチを起こしたりしている。このミスマッチのせいで、自閉についてあーだこーだ言う時、俗説レベルだと他の精神障害や知的障害よりもかなりあやふやに語られがちだし、新書のような文献レベルですら「それホントなのぉ?」と思ってしまうようなものもあったりする。これがまた話をややこしくしていて、じゃあ画面の前のそこのあなたは、絶対に自閉ではありませんか?と問われると、はっきりと「違います」とは言い切れないわけだ。
自閉的なのは子どもだけではなく、その子の親だって、その子の親じゃないほかの(この世に生きている)大人だって、みんなそういう部分を持っている。持ちながら生きている。
ただ単に社会適応の度合いが違うだけ。

だから、つまるところ、彼らは放っておいてほしいのだ。
そうして放っておかれながら、彼らが自閉しながら生きていけるような王国がどこかに出来上がるのをじっと待っている。
それなら、その王国を誰かが作ればいいじゃんと思う。
できれば俺が作ってやりたいが、過去にそういう試みをした人は何人もいて、そのすべてが事実上失敗しているという厳しい現実もある(インターネットの発達障害の互助会とか、メンヘラドットなんとかとか、アライグマさんの界隈とか、いろいろ)。

自閉症の人が、大手を振って歩けるような王国。
それは、生きるために直接的な人付き合いをせず、自分の選んだものが遠隔で作られて、遠隔で届くような社会。

これまでの社会では、それを「ひきこもり」と呼んでいた。
その裏には、賃金の発生する労働は家の外で行われるものであり、内職などはあくまで例外的なものであるという無意識の前提があったはずだ。
けれども、現代の(2024年の)人間は、必ずしもそのような形で働かなくてもよくなってきてはいるし、実際世の中には人が溢れすぎていて、働こうにももうあまり他者そのものを必要としていないというのが現状かもしれない。
だったら、放っておかれたままひっそりと消える人がたくさんいたところで、その他大勢には気づかれないまま、社会は限界まで回り続ける。
そうして、このままではエッセンシャルな仕事にも限界が出てきてしまう、と社会のみんながうっすら気づく瞬間が来る。経済学で言うところの(人間の労働を供給、人間が素で消費する財やサービスをコストと見た時の)操業停止点を割ったところで、自閉はたぶん、自閉ではなくなるのではないか、という淡い期待もある。つまり、自閉であっても他人のために働き、自分にできることをさがして、社会貢献をするように自ら動き始めるようになるのではないか。そのころには、もう資本主義はおろか貨幣経済自体が崩壊している可能性もあるが、まあ、俺はそれならそれでもいいと思う。

繰り返し言うが、彼らは放っておかれたいのだと思う。
俺も彼らの半分くらいはこだわりが強いし、他人のことはどちらかというと怖い。集団行動なんて結構クソくらえだと思っている節も正直ある。
だから、彼らに「普通になれ」と圧力をかけるすべての教育的(の皮をかぶった)活動に、強く中指を立てていきたい所存だ。

2024/09/20

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