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青色って、何色?


わあ、青空、なんか綺麗だね。

なんか、そうだね。

ねえ、語彙力なさすぎじゃない?(笑)

まあでも、なんか、そうじゃん。とにかく、いい色!


読書感想文


小学生の頃から、読書感想文が苦手だった。

理由としては、単純に本を読み切ることが苦手だった。

文章を書くことへの抵抗感は少なかったし、むしろ得意だったと思うが、とにかく、読むのが極端に遅かった。

一文字、一行、目で追うのが精一杯で、時間もかかるし、疲れる。

さらに、忘れっぽいがために、一生懸命読んだ内容も、読み終わったころには大体忘れてしまう。

昔、仲良くしていた友達と私は、ハリーポッターシリーズにハマっていた。

もちろん、原作のあの厚い本を手にするのだが、本の虫だった友達は、あっという間に最終巻までたどり着いた。友達が最終巻を読み終わるころ、私は、炎のゴブレットの上巻(全11巻中の4巻目)を読んでいた。

友達は、あのシーンが、あの人が、と、私にたくさんの話題を振る中、
私は、読んだはずの物語の内容がすっぽり抜けていたり、登場人物の名前を忘れていたり、そんなことばかりだった。

結局私は原作読破を諦めて、映画で物語を追うことにした。

文章を追い、物語の行方を追うのはとても好きだったし、やる気もあったはずなのに、当時の私には、とても高い壁だった。


さらに苦手なのは、読後に感想を求められることだ。

小中学校の夏休みは、決まって読書感想文が課された。これが、私にとって本当に苦痛だった。

たぶん、読書感想文には「正攻法」があるのだと思うが、誰に教えられるわけでもなく「正攻法」の存在に気がついていた私は、心の底から嫌悪感を抱いていた。

また、大人が求めている感想があるのだろうな、となんとなく感じていたし、それがどんなものかも、なんとなくわかっていた。

わかっていたから、それを書くことが気持ち悪かった。

「○○が~の場面で△△に対してこう言葉をかけていて、心が動かされました。○○はこう考えていたのだと思います。△△がーと返していたことも印象的でした。人にやさしい言葉をかけることは、相手も自分も心が温かくなり、優しさのリレーのようなものだと感じました。」

全国コンクールで表彰されるような感想文は、こんな文章よりももっともっと優れていたと思うが、

凡人の私が思いつく感想なんて、「感動しました。」に軽くしっぽが生えた程度だったし、
それを書いたところで、「だからなんだよ」と本気で思っていた。

今になれば、たとえ同じ内容を書くとしても、注目する視点や表現に個性が現れるのだと理解できる。
そして、読書感想文の宿題が、子どもたちが読書を通して抱いた考えや感情を文章にする機会を与えていると思う。

でも、当時の私は、思ってもないことを無理やり書かされるような気がして、
でも思っていることはあまり覚えてないし、上手く言葉にできなかったし、
「なんか、良かったです。」が許されないと思って、結局、何を書けばいいのかわからなくなった。

そして毎年逃げるように、読書感想文の代わりに、「なんとか運動」のポスターを適当に描いて提出することで、どうにか難を逃れていた。



「言葉と感情の整合性」


最近、アミ友と「言葉と感情の整合性」について話していた。

内容としては、感情は言葉として外に出した時点で、その感情は本来のそれとは異なり、歪んでいるのではないか、というもの。

私も常々、同じようなことを考えていた。


例えば、歌番組でよく使われる「勇気を与える」という文言。

変な表現だな、と常々感じていた。

きっと、「背中を押す」とか、「元気をもらえる」とか、そういった意味合いで採用されている文言だけれど、どれにせよ、どういうこと?と感じてしまう。ひねくれものでごめんなさい。


個人的な意見だが、音楽を聴いたときに感じるものって、必ずしも言葉で表現できないと思う。

何がどういいのか、言葉巧みに、ドンピシャで表現できる天才もいるとは思うけど、

なんか、いい」

とか、

「わ!サビ前の音で、なんか、ぶわって、なった!」

とか。


この「なんか」には、「感動」やら「勇気」やらに収まらない、その人だけの彩り豊かな感情や感性が詰まっているのだと思う。

世の中、「なんか」の内容を言葉にできないとダメ、という雰囲気がある。

なんか」は、拙い表現の代表例かのように扱われる。

もちろん、言葉は私たちが何かを共有するためのツールだから、言葉が使えなければ伝わらないことがたくさんある。それは、わかっている。


でも、いや、だからこそ、私は「なんか」がとても尊く感じる。

なんか」に秘めたるたくさんの感情や感性は、必ずしも言葉で具現化しなくていいと思う。というか、とことん突き詰めたら、言葉に出来ないと思う。言葉にする、つまり、既存の言葉に、感情のカテゴリに、自分の感情や感性を簡単に当てはめてしまうのは、少しもったいない気がする。


あなたの青と、私の青と


アイドルオタクをしていると、というかどこにいても、天才的な表現で何かから感じ取った魅力を発信される方がいて、私が言いたかったことは、すでに誰かが、私がやるよりも巧みに、発している。

時々私も、感想を言葉にしようと頑張ってみるけれど、どう頑張っても拙くて、その間にまた天才たちが天才的なスピード感で、天才的な発言を残していく。

結局私には、それらにいいねを押すことしかできない。

どうせ「かっこいい」か「かわいい」か「大好き」とその派生の言葉しか出てこないし、それなら別に私が何か言う必要、ないか…

と、今までに1204回は思った。


ただ、「言葉と感情の整合性」のことを考えると、

私が抱いた「かっこいい」は、「かわいい」は、「大好き」は、誰かのそれとは全く違うものなのかもしれない。

もしかしたら、私だけの、オンリーワンの感情、感性なのかもしれない。


あなたが思う青と、私の思う青は、たとえカラーナンバーが同じだとしても、

全く同じ風に認知しているかはわからない。
それは、確かめようがない。

だったら、同じ言葉を使っていようが、何だろうが、思い切り叫べばいい。

逆に、言葉になんかしてやるものかと、自分の胸に大切にしまうのもいい。

時間をかけて、丁寧に感情と向き合って、深めていくのもいい。

カメラレンズを通すと空の色が違って写ってしまうように、
あなたの青と、私の青は、きっと違うから。


なんか、!


今思えば、読書感想文が書けなかった小中学生の私は、自分の感情にものすごく丁寧に向き合っていたのかもしれないと思う。

感情を自覚することは、簡単なようで、難しい作業だ。(少なくとも、私にとっては。)

感情や考えをどんな言葉に当てはめればいいのか、幼いなりに一生懸命考えていたのだと思うし、おそらく、「なんか」の内容を紐解くのが、面倒で厄介だった。

時には、そんなこだわりを捨てて、とりあえず形にすることが求められたり、必要になったりする。

でも、こだわりぬくことも大事で、それがきっと私らしさの種になる。

そして、「なんか」は「なんか」のままでも素晴らしい。自分の中で、大切にしていければ、それで120点。


10年前の私、大丈夫。読書感想文が書けなくてもその後どうにかなるし、あなた、10年後には大好きな人たちのことを毎日想って、気持ちを拙いながらに吐き出してるよ。すっごく、楽しいよ。



そうだ、あなたの青色、どんな色?

んー、なんか、好きな色!


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