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【短編】 流れる雲とぬいぐるみ


夏の終わりのある日。

白い雲がゆっくりと流れていく。タケルは大切にしているぬいぐるみのクマを手に、窓際で外の景色を眺めていた。
クマのぬいぐるみは、小さな頃からの相棒で、今では色が少し褪せ、ところどころ糸がほつれているが、タケルにとってはかけがえのない友だ。
クマの名前は「クッキー」と言った。

その日も、タケルはいつものようにクッキーに話しかけていた。「ねえ、クッキー。雲がこんなにゆっくり流れていると、なんだか時間が止まっているみたいだね」。
クッキーは、もちろん返事をすることはないが、タケルはそれでも満足だった。彼の空想の中では、クッキーはいつも優しく微笑み、タケルの話に耳を傾けてくれていた。
タケルが話を終えてクッキーを抱きしめた瞬間、突然クッキーが温かくなったように感じた。
驚いてクッキーを見つめると、その目が一瞬輝いたように見えた。タケルは「幻かもしれない」と思いつつも、何か不思議な力を感じた。
その直後、彼は自分が何かに引き込まれるような感覚に襲われ、気がつくと、タケルとクッキーは空を飛んでいた。

「わあ!これって夢かな?」タケルは驚きながらも、心が高鳴るのを感じた。雲の中を通り抜け、遠くの山々や海が一望できる。
クッキーもタケルの腕の中で動き出し、小さな手を伸ばして雲を掴もうとする。
その瞬間、タケルはクッキーがただのぬいぐるみではなく、彼と一緒に生きている存在だと確信した。

二人は、しばらくの間、雲の上で遊んでいた。タケルはクッキーと話し、笑い合い、まるで時間を忘れてしまったかのように楽しんだ。
しかし、やがて晩夏の空は夕焼けに染まり、タケルはふと「帰らなければ」と思った。クッキーもその思いを感じ取ったのか、静かにタケルを見つめ返した。
「そろそろ帰ろう、クッキー。だけど、また一緒にここに来ようね。」タケルがそう言うと、クッキーは小さく頷いたように見えた。
そして、次の瞬間、タケルは再び自分の部屋に戻っていた。窓の外はもう暗く、星が輝いていた。
タケルは不思議な体験に少し戸惑いながらも、心のどこかで「またあの空に行けるかもしれない」と感じていた。彼はクッキーをそっとベッドに置き、毛布をかけてやった。
そして、自分もベッドに入り、クッキーの隣で眠りについた。

次の日、タケルが目を覚ますと、隣にクッキーがいなかった。彼は慌ててベッドを探し、部屋中を探し回ったが、どこにもクッキーの姿はない。
不安が募る中、タケルはふと窓際に目をやった。そこには、昨日と同じように青空が広がり、白い雲が流れていた。
だが、よく見ると、その雲の一つがクッキーの形をしているように見えたのだ。
「まさか、クッキー……?」タケルは窓を開け、外に飛び出した。空を見上げると、クッキーの形をした雲が少しずつ形を変えながら、どんどん遠くへと流れていくのが見えた。
タケルは走って追いかけようとしたが、雲は手の届かない高さにあった。やがて、クッキーの雲は他の雲に溶け込み、完全に姿を消してしまった。
タケルは泣きたくなるのをこらえ、じっと空を見つめ続けた。

すると、空から小さな光がひとつ、タケルの手元に降りてきた。

それは、クッキーの着ていた洋服の小さなボタンだった。タケルはそのボタンを大切に握りしめ、心の中で「ありがとう、クッキー。また会えるよね」と呟く。
泣かないと決めたはずのタケルの頬には、涙がつたっていた。

それから数日が経ち、タケルは少しずつ元の生活に戻っていった。
両親はどうして熊のぬいぐるみがなくなってしまったのか問いただしたりはせず、替わりのぬいぐるみを買ってあげると慰めた。

しかしタケルは、幼心にクッキーがどうしてもこうしなければならなかった理由があるのだ、と理解していた。
時折空を見上げるたびに、タケルはクッキーがどこかで自分を見守ってくれていると感じていた。

クッキーのいない日々は寂しいが、タケルはもう泣かない。彼は強くなり、心の中にクッキーとの思い出を抱いて生きていくことを決めたのだ。

しばらくして、タケルに弟が生まれた。家族は最大の幸せに包まれたが、のちにタケルは弟は早産の危機を乗り越え、生まれてきた奇跡の命であることを両親から聞かされた。

タケルはその話を聞き、クッキーが弟を助け、替わりに空へ旅立ったのかも知れない、と直感的に感じていた。

ある日、タケルが再び空を見上げたとき、小さなクッキーの形をした雲が再び現れた。
それは、まるでタケルに微笑んでいるかのように見えた。タケルは笑顔でその雲を見つめ、そっと手を振った。
そして、クッキーとの新たな冒険がまた始まるかもしれないと思った。

クッキーはただのぬいぐるみではなかった。それは、弟の命を救い、タケルの心の中で生き続ける親友であり、彼を導く存在だったのだ。

クッキーが雲となって空に帰ったのは、タケルに大切なことを教えるためだったのかもしれない。
それは、どんなに遠くにいても、本当に大切なものはいつでも心の中にある、ということだった。

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