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ザ・スズナリ 大川興業 暗闇演劇 と リーダーの資質

ザ・スズナリ 大川興業 暗闇演劇 ・・・絶対にバズりそうもないキーワードだが、昨日行ってきた。

下北沢で芝居を見るのも数年ぶりだが、前回の時もやはり、スズナリで大川興業の暗闇演劇だった気がする。

「Show The BLACK」
暗闇演劇とは、全編ほとんど真っ暗闇の中で行われる芝居である。舞台も真っ暗闇なら客席も真っ暗闇。
この真っ暗闇の中で行われる芝居を見る(聞く)のである。
(※実際には真っ暗闇ではない。舞台支援のために使われる暗視カメラの赤外線LED光源は見える)

ちなみにこの暗闇演劇の「舞台演出支援方法」は大川興業が特許をとっている。

本編は、なぜ舞台が真っ暗闇であるのか、という最終的なストーリーがわかるまでのドタバタを軸にして、人がいきなり暗闇の中に閉じ込められると何が起こるのかといったテーマを大川興業らしい(?)下ネタと単純で強引な笑いとで展開する。
真っ暗闇で何も見えないにも関わらず、観客自身が自分の聴覚と想像力とでその足りない舞台を補っていくのだ。

さて、真っ暗闇の世界ということでまず誰でも考えるのは視覚障害者の存在だろう。本編でもこの真っ暗闇の世界に落ち込んだ登場人物の中に視覚障害者がいる。視覚障害者は普段から暗闇で暮らしているので、暗闇に慣れている。つまりこの世界では圧倒的に有利な存在だ。

当然この状況においては視覚障害者に期待が集まる。是非その視覚障害者にリーダーになってもらおう、という話になるが、ここで頑なに自分がリーダーになると押す主人公(大川総裁)
・・・まあ、ここはネタなのだろうが。
(2001年に自民党総裁選にならって初の大川興業総裁選を実施したところ、江頭2:50が総裁に選ばれてしまう。また、大川総裁が株式会社の資本金1000万円を捻出できなかったため、大川興行の大株主は江頭2:50になっている)
その主人公と同じ境遇に置かれてしまった周りの人間とのやり取りが、物語の展開のメインになっているのであるが。

さて、いきなり暗闇という状況に閉じ込められてしまった。今まで目の見えていた者が、突然理由も分からず視覚を奪われてしまった。
この状態で圧倒的に有利なのは視覚障害者である。
そういう状況がありえるかどうかはさておいて、普通の人間がいきなり視覚を奪われて、ある状況に閉じ込められてしまったら通常ではいられない。
しかし、視覚障害者にとっては通常の状態とさほど変わらない。

だから、芝居を見ている自分自身もその視覚障害者にリーダーになって欲しいと思うし、自分がリーダーになるという主人公に対しては微妙にむかつく。

さて、ここで問題です。

リーダーというのはそういう風に「その時の状況下においてコロコロ変わってよいものなのでしょうか?」

暗闇の世界において、自然にその状況に慣れている視覚障害者にリーダーになって欲しいと願うのであれば、裏を返せば、暗闇でない世界において、その状況に慣れていない視覚障害者にリーダーになって欲しくない。
ということにはならないだろうか?

それは差別とかそういうことではなくて区別だという言い方もあるかもしれない。しかし、本質はそうではない。


では皆さまは「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という施設をご存じだろうか?

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」は、視覚障害者の案内により、完全に光を遮断した“純度 100%の暗闇”の中で、視覚以外の様々な感覚やコミュニケーションを楽しむソーシャルエンターテイメントだ。

こちらは暗視カメラの光源もない完全な闇の中を、視覚障害者用の白杖をついて様々な体験をしていく体験型のイベントで私も数年前に参加してみた。

夜間は真っ暗闇で何も見えないよ、と、田舎に住んでいる人などは良く言うが、実際にはそうではない。ほんのわずかでも、光源はあって、その薄い光からでも目は情報を得る。暗闇にも多少の濃淡があるからだ。

そういった情報がある以上、人は目を凝らし、目から情報を得ようとする。人間は目から情報を得ることに慣れているので、多少でも情報があれば目からその情報を得ることに必死になるのだ。

だから、完全な暗闇にすることが大切で世の中に光があふれている現代ではそれがかなり難しい(と、ダイアローグ・イン・ザ・ダークの人が言っていた)。

完全に目という情報器官が使えなくなるとどうなるか。
目は見えないが、音、匂い、何よりも手を引いてくれる人の温かさ、白杖から伝わってくる物の振動の感覚が、如何に多くの情報を伝えているかということをまざまざと感じる。

人間の持っている最大の感覚器官は「皮膚」なのである。

暗闇に慣れるとそれが自然になる。皮膚でものをみるようになる。手で触って、そこから得られる情報が頭の中に形を描き出す。

こういう体験をすると、「障害者」と「健常者」の間に大きな差を感じなくなる。ものを見る方法が違うだけでそれは個性の問題なのだ。

現代社会は基本的に目の見える人が発展させてきたので、目の見える人に有利なように発展させてきただけの話だ。

だから、目が見えるということと、目が見えないということが本質的に同等であれば、リーダーの資質をそういうところには求めないだろう。


話がもとに戻ってきた。つまり、リーダーの資質というものをどう考えるかということだ。
前提にあるのは圧倒的な平等感である。もともと目が見えないので、この状況に適応できるという有利な状況を吹き飛ばすほどの平等感。

目が見える普通の状態であれば、「健常者」と「障害者」という状態で圧倒的に「健常者」が有利と思えるような状況の中において、それでもリーダーの資質として「障害者」の方が上回っていればその者がリーダーである、という平等感が前提になる。

・・・こんな話最近ありましたね。「れいわ新選組」か。「障害者」であっても、その人にリーダーの素質があるのであれば、それは国会議員になっても然るべきであるという話。

ではリーダーの資質というものをどう考えるか。

考え方は人によって様々だろう。

リーダーの資質というものは「ある状況下において有利に動けること、その状況下において(たまたま)冷静な判断ができること」ではない。

どうやら、大川総裁は
「どんなにむちゃくちゃでも、独りよがりでも、他人を振り回してでも全員を鼓舞し、同じ方向を向かせること」
であると考えているようである。

「Show The BLACK」という芝居の中ではこのリーダーの資質というものが根幹にあるテーマになっている。
そしてその前提としての「平等感」

もちろん笑える芝居なのであるが、そして暗闇というけっこう縛りのきつい芝居なのであるが、見終わった後に妙に真剣にそういった深刻なテーマについて、考えさせられてしまった。

あ・因みに本公演は本日が最終日で、次回の「暗闇演劇」本公演は・・・多分また来年である。
ダイアログ・イン・ザ・ダークの方は新しい公演を始めるようなので、興味のある方はどうぞ。

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