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勝手に哲学ラブレター 〜【THE NEW COOL NOTER賞】〜主催みこちゃんへ

日本時間24日まで開かれているTHE NEW COOL NOTER賞という個人企画があります。(延長などのお知らせ、上のリンクをクリックしてご覧下さい)

沢山の参加者に沢山の選者、その色とりどりな感じが素敵だなと思っていたのと 個人的にnote上で接点を頂いてた洋介さんのお誘いがあったので参加しました。
で、その参加者が場を共有するサークルまで作ってくださってて、本当に主催の方達のお祭りを盛り上げよう!という小さく継続した努力がすごい、と思ってます。こういう継続努力は何気に難しい。

0.この文章の経緯(殆どの方はここまで読んで下さったらもういいかなって)

で、サークルで主催のみこちゃんがこんなことを書かれまして

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多分これ、私への返信というより全員にみてほしいものだったんだと思うんですが、私のコメントの下に入ってしまってたので「簡単でよかったらやりますよ」とお答えしました。

その直後に(大笑)みこちゃんがスローインしてきたのがこちら。(私は夢の中だったので、気付くの遅くなってスイマセン)

本当はコメント欄での短い講評にしようかとおもいました。でもね、オバサンが短文で書くと大きな誤解を受けそうだったので(だから私はツイッター苦手)、ちゃんと書きます。というか、これは講評ではなくみこちゃんへのラブレターです。「長い」です!(なので他の方には全部読んでもらう必要もないかな)ついでに書いてることは哲学です。

※もし読んで下さる奇特なかたがいらしたら、みこちゃんの記事・引用記事・出来たらみこちゃんのプロフィール等も読んでから、のほうが私の言葉は曲解されないかなと思います。

で、これすごく大事なコトなので最初に書きます。私はみこちゃんという一人の女性に大きなリスペクトを持っています。彼女の一生懸命生きてきた(であろう)時間は私ごときが一言、二言で評するものではない。この作品を書いたエネルギーも凄いと思います。

そしてみこちゃんと私では沢山の点で視点が違います。だからこその最大リスペクトだと知っててください。私の言葉は絶対にみこちゃんへの否定ではないです。私の持たない視点で世界を見せていただいて、本当にこんな嬉しい事はないのです。

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1.みこちゃんを知らなかった私が読んだ

さて。この「教養とはなんだろう...盗んだ金だね」をイキナリ読んだ直後で私が最初に抱いたのは正直な言葉で書けば違和感です。ざらっとした違和感、というよりもっと心のかさぶたを 何かがこっそりこっそり剥がしていって チリチリした痛みと滲む血で「あれ?」と思うような違和感。

ちがうちがうちがう。

違和感の元がはっきりしないとき、私は時間を置きます。それは私がフラットに言葉を受け止めることが出来ない状態だと知っているからです。多分、4300字あまりの文章のなかのどこかが、私の古傷にピンポイントで刺さったのです。

話は飛びますが、知らない人に図星なことを言われてイラッとしたこと、ありませんか。

若い頃私には沢山ありました。でもそれは、自分でもうっすら矛盾に気付いてナントカしなければと思っている事だからこそ突き刺さる。
イラッとする感情emotionはどうしようもないとして、その根っこは気をつけながらそうっと掘り起こすべきものと、私は自戒しています。

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2.書いたヒトを探しに行こう

なので、まず私はみこちゃんというひとを探しに行きました。プロフィールはもちろん、リンクしてある記事、リンクしてあったTwitterアカウント、自分でこれは読んだ方が良さそうだなと思った彼女の言葉・・・

軽く2時間は読んで、今の時点で私にみこちゃんというひとはまだ見えません。読み方かもしれないけれど、多分みこちゃんにはご自身を文章に乗せる部分とそうしない部分とを無意識に分けているところがあって、それは私にもの凄く覚えのある文章でした。昔そこを越えられなかった自分を思い出しすぎて、心がズキズキしすぎて、読んだよ、の意味のスキすら残せなかった。

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でもそれをして初めて、彼女の年齢と、今彼女が言葉の世界で成そうとしていることとが見えてきました。彼女が見てきて私が知らないもの、私が経験し悩んできたことと彼女がまだ知り得ないもの。言ってみれば私はみこちゃんの立っている「島」にいたことがあるけれど、今は違う島に立っている。だから私には外から見えてしまいイラッとしてしまう言葉があるように みこちゃんにとっても私はイラッとする言葉しか書けないかもしれない、「あなたは私を理解しようがないじゃないか」と。

だから、この時点で講評ではなくてラブレターを書こうと思いました。

3.教養は知識と違う

本題です。

痛いほどみこちゃんの言葉も状況も考えの経緯もわかるけれど、半世紀生きた私には教養という言葉の定義が違います。コメント欄で書かれていた方もいらしたけれど、私にとって教養とは 自分の世界を構築する足許の敷布 でしかありません。

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本や講演会や授業、最近ではインターネットで得るもの、それは知識。
敷布は自分の人生の縦糸を知ったうえでそれらを編み込みつつ、浮かび上がる模様の多彩さを(嫌悪するのではなく)受け入れ作られます。教養とは、さらに自分が「どうその上に立つか」だと。「どうやってその敷布を、橋代わりに渡して違う世界の人と歩み寄るか」だと。

思い遣り、理解、マナー、色んな言葉で表現されるけれど、相手を知ろうという愛がなければ足許の敷布に織り込む方法はありません。敷布のどの辺、角をそちらに拡げるかを考えられること、そしてその敷布自体に意味はないのだよ、私があなたと同じ場所に立とうとしているのが大事なコトなんだよと言えたらいいなぁ。

そして敷布は見せるために織るのではなく、自分にリマインドし自分の世界観と自分の軸を 自らの内に確認するものだと思います。それは、自分という個の宇宙(エゴとも言います)と、外界を緩やかにつなぎ優しく在れるための、ただの融和剤です。この視点において、それをこれまでのみこちゃんの人生で見せてくれる大人がいなかったことを、私は残念に思う。

でもね、みこちゃん。

かつて働かれていた会社の広告営業の上司さんは、また違うことばで、また違う状況設定で、また違う立ち位置でこのことを教えてくれていたと思いますよ。

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教養とは咀嚼したのちのこと。そう書かれてましたね。もう一歩!行きましょうや。笑
咀嚼してもカラダにはなりません。消化管は賢いので、咀嚼されてきても身体そのものが「これはちがうかも」と思うものはスルーさせようとします。

知識が教養になる瞬間には「相手の靴に裸足で足を入れる」勇気が必要です。だって、汚いって思うでしょう?匂うかもしれないし、磨いてあっても水虫もらうかもしれない。尖った小石が紛れ込んでいるかもしれない。

でも履くのです。

同じ状況で同じ気持ちにはなれずとも、事実はひとつだったのに真実は履く靴で違うことが、自分が見ていた事、見えていなかったことを知ることが、知識から教養に昇華する瞬間だと思います。

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みこちゃんのカワイイ綺麗な靴に、私の足を無理矢理入れてみて(伸びてたらごめんねー)、少し昔の私と似たところと全く違うところがあると理解しました。充分じゃないけど、そこまでなんだけど、みこちゃんの人生と色んな考えへのリスペクトはここからきてます。

4.私の視点での教養は愛だ

さて、みこちゃん。
今あなたは怒りを感じて文章が読めなくなってるかもしれない。そんなところ、私だってわかってる、その上で私の経験からそう言ってるんだ、そう思われたかもしれない。

否定しません。私はみこちゃんの経験してきた時間を一緒に歩けないし、今から戻って一緒に歩いたからといって理解出来るかどうかの保証もない。

だからこれを書いています。根本が、言葉の定義が、多分すごく違うのでね。

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みこちゃんも異国で異文化の中で暮らすことが長かったようなのでおわかりかもしれませんが、この世には驚くほどいろんな視点があります。事実はひとつでも人の数だけ真実があり人の数だけ正義があります。それは全て視点に拠るのです。

この世に時間と空間が存在する限り、そこの溝が埋まることはありません。でも「バーチャルに」そこに橋を渡すもの、それが教養です。だから私のなかで教養は愛に同義です。

例えば左手を不浄とする世界で 知らずに左手で代金を支払う。それは相手の怒りを引き出しても本人には何も分からないわけです。もしかすると「なんでお金を払ってんのに怒るんだよ!」って怒るかも知れない。

でも「左手が不浄だ」と「知識」を持っていたら、左手をそこで使う事はなかったでしょう。これは「知識」です。知識がリスペクトと繋がったときです。

でも教養は、そこでケンカになりそうな所に仲裁に入り、お互いの怒りに共感し、その上でなにが起きたか、何故誤解したかをケンカしそうな二人に納得させることです。ここで大事なのは太字部分で、ただ知識(誰かにとっての正義)を伝えても怒りをもった人には届かない。だから、おなじ立ち位置に行くのです、双方に。それはリスペクトの上にそれぞれの方への愛をもって。

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5.多分 世の中が言葉の定義をあやふやにしてしまう構造になっている

ここまでで、みこちゃんのなかの怒りがすこし下火になっていることを願います。その上で私は 現代という時代における言葉の定義の曖昧さを指摘しておきたいと思います。

言葉は変わります。これは社会という中で使われるのが言葉である以上、仕方ない。「本来」そんな意味はなかったのに、という使い方をされる言葉は枚挙に暇がないことは皆さんご存知でしょう。(私が小学校で習った漢字の書き順まで違うんだから!・・・あ、それは関係無い?)

人間社会も、言葉も、rigidに見えてその実すごい勢いで変化し続けています。これに追いつけないのは人間の頭の方で、「正しくないのは悪だ」といわんばかり。

最近では話題にも上らなくなった「学校のルール」だって超時代錯誤だし、法律の世界に「時代遅れ」になったことを理解されつつも社会への影響を考慮してなかなか大きく書き換えられないことだってある。

このズレが、巡り巡って多くの人を生き辛くしています。

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言葉の定義は そんなわけで変化し続ける社会と人によって その境目がゆっくりゆっくり溶けていき別の形に変容していきます。

また話がちょい、逸れます。
「ら抜き言葉」は私は大嫌いで、子供達にがっつり「迷ったら 勧誘形を考えろ」と教えました。(「見る」「着る」→「見よう」「着よう」:これら「よう」がつく動詞はら抜きになりがちだから「見れる」じゃなくて「見られる」「着れる」じゃなくて「着られる」だよ、と。「読む」→「読もう」はら抜きにならない(なれない)ことば。)
でももう世の大多数がら抜きを正解とする時代、この活用形の知識は正しいでしょうか?


何を言っているか、というと、件の「教養」ってもともとLiberal Artsですよね。ご存知かもしれないけれど、欧米でもliberal artsとはなんぞや、をすぐに言える人はあまり居ません。「いろんなことを網羅して学び、人間性、人格を磨く」とか言ったってなんじゃそりゃ、ですよね。だって、知識と人間性・人格には大きな隔たりがありますから。

もっと言えばリベラルアーツの語源は古代ギリシャ語と言われますよね。そしてその理解の一部は「人間を自由にする学問」・・・禅問答かっ!?

日本語の教養という言葉がいつ現れたのかは知りません。でも明らかに「広い知識」みたいに誤解されているのを感じます。

それは誤解している社会が悪い?大元の言葉が分かりにくいのが悪い?

卵が先かニワトリが先か的な議論なので、もうやめときましょう。
私の理解の「教養」と、社会の多くのひとの「教養」には大きな乖離があることを、私は理解しようとおもいます。でもそっち(教養=広い知識、っていう受け取り)に「改宗」はしませんけどね。

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6.芸術と教養

(中略)しかしクラシックを聴くのに教養はまったく要らないし、ヴァイオリンを弾くのに教養はじゃまだ。

 たかが教養だなんて、そんなくだらないもので、芸術作品は鑑賞も演奏もできない。

同感です。でもみこちゃん、もうちょいトシを取ったら(そして素敵な、真の教養人に出会えたら)違う視点も加わると思うわ。

なぜそのartが生まれたか。なぜその形を取ったのか。何故その旋律でなぜその色だったのか。ここに歴史と地理という基礎知識が加わり、時代背景が加わることでartの持つ意味が変わったりより大きな拡がりを見せることは 知ってますよね。教科書の知識ではない、「共感」「同情」をもってそれぞれのartと対峙したとき、ものすごい深さとひろさの情報が流れ込む、それがartの真の力だと思います。

別に正解の読み解きなんていらない。でも、もの凄く苦しかったみこちゃんが書物のなかに救いを求めたように、表現者は自らの救いとなるものを込め、鑑賞者は共鳴する何かに救われる。

知識披露でしかない蘊蓄はいらないんです。でも自ら求めて得た知識を自らの経験に照らして新たな理解を得たとき、また違う世界が拡がるもんです。

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そういう意味で、みこちゃんには素敵な教養人と知り合う機会があったらいいなと心から願っています。そう、みこちゃんが言うように、彼らは看板を掲げてません。何も知りません風な顔をして、でもこころを開いたときに初めて彼らのみている世界を表現して教えてくれます。それは「腹立たしい蘊蓄」とはちがって、清流のように心に雪崩れ込む知識と経験に裏打ちされた、また別の形の芸術です。

きっと、きっとそういう人達に出会えると信じてます。

7.最後にみこちゃんへ

文章の上で知り合えた、しかもこんな偶然で「みこちゃん探し」までして 自分の心の奥底のざわつきを掘りに行けて それらのことに感謝しかないです。

ちらちら書いたけれど、私にもみこちゃんみたいな時期があった。だからみこちゃんの言葉には、自分のなかでもう血を流さないけどこっそり治りかけだったんだなと気付く傷があることに気付かされたり、その時期にしか書けないエネルギーののった文章だと眩しさを感じました。

人間に、人生に、時があり出会いがあり空間の違いがあることは ある意味とても豊かなことなのだと今は思います。私から言えるのは みこちゃんの世界は あなたがみてきた世界の数百倍、数千倍大きくて、きっとこれからも変化し続けるということです。きっと今日も誰かに出会うんだよね。それがまだまだ続くの。すごい事だ。

みこちゃん というひとに出会えて私はとても嬉しい。私が過ごした無駄に思えることも時間も、私にとってかけがえのない視点をくれていたことを あなたの文章が教えてくれた。本当にありがとうございます。

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noteだと(というか画面上だと)私個人としては2000字前後が心地よく読める長さ、と常々いいながら6000字になりました(爆笑)。ショートショートの長さだわ。

これからもよろしくお願いします。

田中 朋子 拝


追伸:
そういえばこちらではSuzuki Method(なんで日本語だとメソードになるんでしょうね?)はあれこれの楽器で有名な学習法です。うちの子も亜流でしょうがバイオリンをそれで学び、娘は「フルートをSuzuki Methodで伸ばしたら?」と助言?されたことも。
アメリカで会報とか出てるのかは知らないんですが、その方法を使わせて頂いている人達は沢山居ますね。同じ日本人として誇らしいです。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。