褒めて育てない
一言で言えば、「褒める」の認識がこうだったら、幸せになれる人が増えるんじゃないかなー、という話です。
言葉というものは曖昧なもので
私は日頃から、言葉というものはとても曖昧なものだ、と思っています。
言葉の持つ意味をどういうふうに認識しているかは、人によって違います。
大袈裟な例えですが、「りんご」という言葉を聞いて、りんごをイメージする人もいれば、バナナをイメージする人がいる可能性だってあるわけです。
言葉の認識というものは、言葉に含まれる意味が難解であればあるほど、人それぞれのバックグラウンドに大きく左右されるところがあると思っています。
「普通、りんごといったら、あのりんごだろう!」
と言いたくなるときの「普通」は、実は自分だけの思い込みかもしれないのです。
「褒める」とは
話は変わって、今朝ふと、「褒める」の一般的な認識は、ちょっと変えた方がいいんじゃないのかな、と思いました。
私は昨日、いつも記事を読んでくださっている方から、とても褒めていただきました。
すごく感動しました。
このような記事を書かれるには、とても勇気がいったことと思います。
根無し草の根さん、本当にありがとうございます。
わーい!褒めてもらった!
なんて単純に喜んでしまったのですが、「褒める」と言う言葉が、なんだかしっくりこない。
根無し草の根さんも、褒めよう、と思って書いてくださったのではないと思うのです。
恐縮ですが、ご紹介いただいた記事を読ませていただいたときに、私には、根無し草の根さんの「感動しました!」という想いが、ずごーん!と伝わってきたのです。
だから私も、すごく感動しました。
このことから、「褒める」とは、「感動を伝える」ことなんじゃないか、というインスピレーションをいただきました。
褒めて育てる
最近は、教育現場において、「褒めて育てろ」と言われることが多くなりました。
でも、「褒める」の一般的な認識には、「評価する」という概念が混ざっています。
これだとどうしても、「上からものを言う」「上からものを言われる」といったことになりがちで、良い効果が発揮されにくいような気がしています。
教師と生徒の関係や、親と子の関係においても、これに関連する「摩擦」が多く見受けられます。
「条件つきの愛」という表現があります。
この条件を満たしてくれたら愛してあげる、というものです。
「褒める人」の提示した条件を満たし評価されなければ褒められないというのでは、「褒められたい人」は、「褒める人」の枠の中でしか生きてはいけないような気になってしまうのではないでしょうか。
「褒められたい人」の素晴らしいところが、「褒める人」の枠の外にあるとしたらどうでしょう。
「褒めて育てろ」というのも、ちょっと疑った方がいいように思います。
幸せを共有する
「褒める」のではなく、「感動したことをそのまま素直に伝える」のが一番、と私は今のところ思っています。
例えば、私の夫はお茶を淹れるのも飲むのも好きで、毎日美味しいお茶を淹れてくれます。
この行動を「褒める」とすると、「美味しいお茶を淹れられてすごいね!」となるでしょうか。
「感動したことをそのまま素直に伝える」とすると、「淹れてくれるお茶がいつもほんっとに美味しい!人に淹れてもらうお茶ってなんでこんなに美味しいんだろ〜幸せ〜!」となります。
盛っていません。
私は本当にそう思っていますし、伝えています。
そして夫は毎日、嬉しそうにお茶を淹れてくれるのです。
こうしてお互いが幸せを共有できたら、「褒める」ことによる効果を、遥かに超える効果を生んでくれるような気がしています。
「感動したことをそのまま素直に伝える」ことは、難しいことではありません。
ほんの些細なことであったって、自分だけの思い込みであったって、いいのです。
自分の感動を伝えることは、「ありがとう」を伝えることに似ていて、きっと不思議な効果を生んでくれるはずです。
「ありがとう」の効能についてはこちら。
何より、「自分の感動をそのまま素直に伝える」と、自分の心が幸せになるのです。
自分の感動を言葉にすることで、自分の心が「感動」を認識して増幅する、そんな気がします。
認識により増幅した感動の「振動」は、周辺に作用して、「感動」として伝わり、広がっていきます。
家庭、教育の現場、社会で、こうしたことがもっともっと当たり前になっていくといいなと思います。
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