見出し画像

かわいい人

最強の愛犬

我が家の愛犬を見ていると、かわいいって最強だなあ、と思います。

私は、愛犬なら、何をしてもかわいいと思えるし、何をされても許せるのです。

相手が人間となると、そういうわけにもいかないのは、なぜだろう。

まず前提として、私は愛犬を「かわいい」という絶対的なフィルターを通して見ています。

前提がそうだから、結論もそうなる。

と言ってしまえば、話は終わってしまうのだけれど。

わかりにくいので、掘り下げてみます。

可愛いということ

「かわいい」は「可愛い」と書きます。

なぜそうなったのか、語源を調べてみてもよくわからなかったのだけれど、流れでそうなったにしろ、「愛することが可能」という漢字を使うようになったのは、そこに真理みたいなものが働いているんじゃないかと思うのです。

前回の記事で、こんなことを書きました。

我以外皆師、とはよく言われることですが、愛犬だけでなく、目の前の問題は、きっと全部先生なのでしょう。

ただ、私が思うことは、先生というより、まだ見ぬ自分を愛でる、という感じがするのです。

この問題の中に、まだ見ぬあなたのかわいらしさが隠れているよ、と言われている気がするのです。

愛犬の世話になる / moimoi

目の前の問題を愛でることができるということは、それを許容できる要素が自分の中にあるということです。

人でも状況でも、他者を許せるということは、自分を許せるということです。

自分を許せるということは、自分を愛せるということです。

愛せる=愛することが可能=可愛い

というわけで、自分を愛せるようになると、自分をかわいく思えるようになるのです。

かわいいフィルター

人間なら、というフィルターは、結構厄介です。

例えば目の前に「好かんわ」と思う人が現れた場合、私は、それが愛犬なら、と考えます。

私のテリトリーに土足で上がりこみ、部屋の中を荒らしまくって去る、とか。

相手が人間なら「ありえん」と思うのだけれど、相手が愛犬なら「まったくもう、しかたないな」と許せてしまうのです。

この差は、なんだ。

人間なら、というフィルターには、無意識のうちに様々な「こうあるべき」が組み込まれているのです。

人間なら靴を脱げ、とか。
人間なら常識を考えろ、とか。

しかし、いったんそれを取り外し、「かわいい」という絶対的なフィルターを通して再度同じ状況を見てみる(愛犬ならと想像してみる)と、なぜか相手がかわいく見えてくるのです。

目の前にあったはずの問題が、たいした問題ではなくなるのです。

実際どうするか、ではなく、そうした想像ができるかどうか、ということが、ここでは重要です。

だから、目の前の問題を許せるようになるためにそれをしよう、なんてことを言いたいわけではありません。

かわいい人になる

この現象について、私が注目したいことは、他にあります。

先にも書いたように、目の前の問題を愛でることができるということは、それを許容できる要素が自分の中にあるということです。

言いかえれば、そこに「かわいい自分」がいるということです。

目の前に問題が現れると、そこに醜い自分も一緒に現れるような気がするのだけれど、実は、逆なのかもしれません。

あなたにだけは気づいて欲しい、と、まだ見ぬかわいい自分が、自分に言っているように、私には思えるのです。

そうして少しずつ、自分の中の「まだ見ぬかわいい自分」に気づいていくと、外側の現象に惑わされない「本当のかわいい自分」が、少しずつ築かれていきます。

気づく=築く、ってことなんだなあ。

また、かみさまの粋な駄洒落を発見してしまいました。

兎にも角にも、かわいいって、やっぱり最強だよなあ。


この記事のきっかけとなった、前回の記事はこちら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?