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僕が「フィロソフィーのダンス」というグループを信じることができる理由。

いまこの時代って、先が見通せない、不確定な時代であることはまちがいなくて、それゆえ何かを信じるとか、手放しで賞賛するとか、また希望を抱くとか、そういうことがとてもしづらい時代であると思う。

そしてだからこそ、それがたとえどんなにささやかであろうと、何か心の底から信頼できる、少なくとも信頼したいと思える存在と出会えることはとても幸運なことだとも思うのだ。

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2019年12月17日、新木場スタジオコーストでおこなわれたフィロソフィーのダンス「Glamorous4ツアー」ファイナル公演を観終わって、あらためて僕はそんな「幸運」を噛み締めていた。

彼女たち、フィロソフィーのダンスというグループの存在を知ったのはいまから3年ほど前、2016年の暮れのことだったと思う。たまたまYouTubeを観ていて出会った「アイム・アフター・タイム」という楽曲に衝撃を受けたのが最初だった。

ただ、アイドルについてなんの知識も持っていなかった当時の僕は、彼女たちはいわゆるガールズ・グループで、アイドルだという認識はまったくなかった。いまにして思えば偏見以外のなにものでもないのだけれど、アイドルにしては曲がカッコよすぎるし、だいたい歌が上手すぎるよ、と。

では、すぐ彼女たちにハマったかというと実はそうでもなく、2、3ヶ月かかったような気がする。というのも、先にあげた「アイム・アフター・タイム」という楽曲のMVでは彼女たちは水着姿で登場しており、それがなんとなくあざとく感じられ鼻白んでしまったからである。

とはいえ、やはり楽曲は最高だし、なんだかんだ言ってもつまるところ「カワイイは正義」である。いつしかYouTubeにUPされた数少ない動画を片っ端から繰り返し視聴するようになり、デビューアルバム『ファンキー・バット・シック』でその予想をはるかに上回る音楽性の高さに完全にノック・アウトされてしまったのだった。それが、2017年の春先。

それにしたって、まさかこの自分がアイドルのライブに行くようになるとは微塵も思いもしなかった。それがいまやこの有様である。若い人よ、よくお聞き。この世の中に「絶対!」なんてないのだよ。

それはともかく、初めて彼女たちのライブを生で観たとき開いた口が塞がらなかった。あるいは、口からよだれを垂らしていたかもしれない。それくらいの衝撃だったのだ。CDショップの売り場の片隅で、オーディエンスも百人くらいだったと思う。

ライブで、僕の場合ロックもジャズもクラシックも聴くのだけれど、すごい! かっこいい! 興奮した! といった常套句がこんなにも当てはまらない体験は初めてのことだった。なんだろう?この感覚は。ひとことで言えば、多幸感。帰り道の電車の中ずっと考えて、ようやくひねり出したのはそんなフレーズだった。これはもしや新手の宗教なのではないか? そんなことすら考えてしまうくらい、フィロソフィーのダンスのライブがもたらす高揚感は他に例を見ない唯一無二の体験だったのだ。

彼女たちのことをもっともっと多くの人たちに知ってほしい、いや、知られるべきである。こうして、ライブやインストアイベントに足を運び、自分のSNSで執拗に(笑)発信する日々がはじまった。とはいえ、仕事柄ライブに行ける機会は限られていたので偉そうなことはとてもじゃないが言えない。気持ち的には、永遠に新参者、と思っている。

それでもライブ、とりわけインストアイベントには、たとえ最後の一曲しか聴くことができなかったとしてもできるだけ駆けつけた。最後方で背伸びしながら、ほとんど姿は見えないがそれでも歌に耳を澄ました。群集心理? たくさんの人間が集まっていれば無関係な人たちも「なんだろう?」と思って寄ってくるし、その勢いで彼女たちのライブを体験してもらいさえすればこっちのもの(どっちのもの?)と考えたからである。いまとなってはそんな必要はまったくないくらいフロアは毎回大勢の人たちで溢れかえっているけれど。

それにしても、なぜ僕は彼女たち、フィロソフィーのダンスにこれほどまでに熱心になれるのか? おそらくその理由はふたつある。

ひとつには、まあ、なんというか「おせっかい」である。正直、僕は彼女たちがアイドルであろうがアーティストであろうがどっちでもかまわないが(本当のところは、アイドルでありアーティスト、アーティストでありアイドルと思っている)、ただただ「音楽」としてすばらしい。評価されるべきものがちゃんと評価される、そういう世界であって欲しいじゃないですか!

ところで、僕らが「音楽」を必要とするのは、それが生きるよろこびやパワーを与えてくれるからである。そして、彼女たちのライブがもたらす多幸感、全方位で「いま」を肯定するあの力強さこそは「音楽」そのものと言える。だからこそ、僕は彼女たちの歌を僕が出会った時と同じように〝偏見なしに〟世界中のみんなに聴いてもらいたいし、また共有したいのだ。それにさ、ジャクソン・ファイヴのライブはもう観れないけれど、フィロソフィーのダンスのライブならいますぐ観られるんだよ。

さて、もうひとつの理由については最初に書いた。フィロソフィーのダンスの存在は、僕にとってささやかな希望の光なのである。

この世界は所詮ままならないものである。思うように物事が運ばない、信じているものに裏切られる、そんなことは生きていれば当然、多かれ少なかれあることだ。もうイヤだ、ダメだ、つい虚無的な気分にとらわれてしまうことだってあるだろう。

でも、フィロソフィーのダンスは、少なくとも僕の知るかぎり、これまで一度だって僕らの期待を裏切ることはなかったし、それどころかその期待を大きく超えてつねに新しい景色を見せてくれた。彼女たちの伸びしろは無限にみえる。

たとえば、ライブ会場が大きくなったとき、大きくなった会場で以前と同じことをやるのではなく、会場が大きくなったぶん自分たちもまたその会場に見合う大きさにまでレベルアップして僕らの前に現れた。まさに、彼女たちのプロデューサーである加茂啓太郎氏のこの言葉を見事に実践してきたと言っていい。

もちろん、ちょっと注意深くみれば、その背後にとんでもない努力の積み重ねがあることは一目瞭然である。「歌」という部分だけ切り取ってもこんな感じ。

奥津マリリさんは、たとえ同じパートでも決して同じように歌うことはしない。声のトーンやフレーズ、ちょっとした力の加減など毎回ものすごく工夫しているし、それがまた「お、今日はこう来たか!」と楽しかったりする。絶えずいろいろなアイデアを考え、試すひと。

まっすぐに届く声の持ち主である佐藤まりあさん。フィロソフィーのダンスの楽曲には、彼女にしか歌えない、彼女が歌うことではじめて説得力をもつパートがある。また、ライブでの安定感もどんどん増している。安心感というか、信頼感。真ん中に彼女の声が「軸」としてあることで、他の3人の個性がより生きる。全方位を照らすまさに〝スーパーミラクルアイドル〟。

もともとパワフルで圧倒的な存在感を持つ日向ハルさんだが、「シャル・ウィ・スタート?」や「シスター」で力を抜いて歌うというスキルを身につけたことで、歌の表現の幅がぐんぐんと広がっているように思う。以前は「苦手」と言っていたライブでのフェイクもいまやお手のもの。天才肌のひとだが、その一方でR&Bやファンクの音源なども聴き込んで勉強しているのだと思う。

おとはすこと十束おとはさんは、当初はその個性的なアニメ声を生かしたカワイイ歌い方を意識的にしていたように思うが、歌唱力のアップにつれてそれまでは封じていた(?)低音をうまく使いこなすことでまた新たな魅力を手に入れた。2018年のイベント「ニューイヤープレミアムパーティー」で披露した「ダンス・ファウンダー」には本当に度肝を抜かれたし、「エポケー・チャンス」や「ヒューリスティック・シティ」、「シスター」などでは、そのゾクゾクするような低音が楽曲の魅力をより引き出している。個人的には、「コモンセンス・バスターズ」でファーストワンマン、サードワンマン、フォード(4th)ワンマン…… と回を追うごとに安定感を増してゆくおとはすの歌唱力の進化ぶりに感激しいつも泣かされる。

といった具合に、例を挙げればキリがないほどフィロソフィーのダンスというグループは進化を続けている。3枚出ているアルバムにしても、毎回これが「最高傑作」と思わせておいて、つねに新作でそのクオリティーを更新している。こうした積み重ねがあるからこそ、僕らはみな彼女たちの一挙手一投足に全幅の信頼を寄せることができるのだ。

先日のライブ中、日向ハルさんから、自分たちが「ベスト・フォー」ならぬ「ババア・フォー」になったとしてもこの4人で歌いつづけるという力強い「宣言」があった。先のことなんてわからないし、それはとても大変なことに違いないが、彼女たちがそう言うならきっとそうなのだろうし、その限りにおいて僕らはその言葉を信じ、ずっと応援しつづけることだろう。

ここまで必ずしも順風満帆というわけではなかった中、どんな時もつねに自分にできること、自分がやるべきことを考え、ひとつひとつ積み上げてゆくことで自分たちの道を切り拓いてきた彼女たちの言葉だからこそそこには説得力があるのだし、それゆえ僕らが否定したり疑問を差し挟む余地なんて1ミリだってないのである。まあ、「ババア・フォー」という言い方はともかくとして。

これ以上先日のライブについては細かく書かないし、じっさい書くだけの技量もないのだけれど、これといった派手な演出は特になく、ただただ音楽だけをひたすら聴かせると同時に、そのセットリストを通してこれまでの彼女たちとこれからの彼女たちのストーリーを浮かび上がらせるという見事な構成に舌を巻いた。

そして、最後ステージから来年2020年にメジャーデビューが決定したとの報告があり、満員のスタジオ・コーストを大いに沸かせた。正直なところ、実力的にも人気的にも、メジャーデビューは遅すぎるくらいであるが、インディーズでやれることはすでにやり尽くしたという意味での、いまこのタイミングでのメジャーデビューなのだと思う。

じっさい、YouTubeの再生回数や会場のキャパは、僕の目には全然、まったくと言ってよいほど彼女たちの実力からすると少なすぎるし、小さすぎる。それがずっと歯痒かったし、また悔しくもあった。きっと彼女たちにしたってそうだったろう。「これでやっとスタートラインに立てた」というあんぬさんの言葉からもそんな思いがこぼれ落ちる。聴いてみてピンと来ないのは好みの問題だから仕方ないとして、それを必要としている人がいるにもかかわらず届かないなんて、そんなに悔しくてもったいないことはない。

テレビやCMの仕事がもっと増えれば……。もっと大きなフェスに出演するようになれば……。メジャーであることは、今後きっとそういった局面で大きく力になるはずである。仮にそれが「毒」だとわかっていたとしても、ときには皿ごと食わなきゃならないことはあるのだし、まったく不安がないわけじゃないが、彼女たちの貪欲で強靭な胃袋であればそんな「毒」も見事に消化し、栄養に変えてしまうにちがいない。バリバリ行ってくれ。

いま振り返っても、このあいだのツアーファイナルはすばらしい空気が満ち満ちていた。いわば、ステージと客席、その双方から「ありがとう」「ありがとう」と応酬しているような。平成から令和に変わり、2010年代も終わろうとしているいまこの時代に、東京の片隅にこんなにも甘くて心優しい「きれいごと」の世界が確かに存在していたなんて、これはもうちょっとした奇跡じゃないか。

だからこそ、あらためて思う。この先どうなるかなんてどうでもよいのだ。ほんとうに。

ただ、僕にはこれからもフィロソフィーのダンスは進化を続けてゆくと信じられるし、その先の未来にはきっとアイドルとかアーティストとか、そんなことは誰も気にしないような地平が開かれていると信じている。

だからといって、彼女たちにプレッシャーをかけようというつもりは毛頭なくて、こんな時代にあって、こんなふうに心の底から信じていられる存在と出会えたことの幸運をよろこび、メンバー4人はもちろん、彼女たちを日頃からサポートしてきたスタッフや作家陣、そしてファンの仲間にここで感謝を伝えたい、ただそれだけである。


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