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ドラえもんと未来

240.ドラえもん

ちらっとテレビを見たら、画面にドラえもんが映っていた。

ウィキペディアによると、テレビアニメとしてドラえもんがお茶の間に登場したのは1973年のこと。かれこれ50年前である。

50年もの長きにわたって子どもたちの「人気者」であり続けるというのは、しかしとんでもないことである。そう思いません?

まさか知らないひとはいないと思うが、念のため言っておくと、ドラえもんとは未来からやってきた「ネコ型ロボット」という設定である。

そして、ぼくがなによりスゴい! と思うのは、それが未来、というより「未来的なグッズ」が次々に登場するお話でありながら、50年経ってもまったく色褪せないという点にある。

たとえば小学生のころ、ぼくが夢中になって読んだのは星新一のSFショートショートだった。いま読んでもおもしろいし、子どもの時分にはピンとこなかったシニカルさにもニヤッとさせられる。まちがいなく優れた読み物と断言できる。

ただ、そこに登場する多くのガジェット、真鍋博のイラストによってより鮮烈なイメージをともなって描かれた「未来的なグッズ」は、いまとなってはさほどワクワクしない。

なぜかというと答えはカンタンで、そうした多くのガジェットはその後実際に実用化され、いま自分の身にあふれているからにほかならない。テレビ電話、電気自動車、食事と同じだけの栄養を摂取できる錠剤、家庭用のコンピューター…… 。

逆に残念なのは、子どもの頃には未来そのものであったようなこうしたモノが、実現してみると案外つまらなかったりすることだ。あのワクワクするような心のときめきはどこに行ってしまったのだろう。

それにひきかえ、ドラえもんに登場するさまざまなガジェットの多くはいまだ存在しないし、おそらくこの先もずっと実現することはないのではないか。

タケコプター、どこでもドア、ほんやくこんにゃく……。たしかに便利だ。でも、海外旅行にコンニャク持ち歩きたくないよ。

そこで星新一と藤子不二雄のちがいをかんがえる。

ひとことで言うと、発想の出発点がちがうのだろう。科学者と夢想家のちがいとも言えそうだ。

作家とはいえ、製薬会社の創業家の御曹司で大学で化学を学んだ星新一は科学的な思考の持ち主だったはずだ。科学的な知識が豊富なだけにけっして「ほんやくこんにゃく」は思いつかなかったろうし、仮に思いついたとしてもそれを受け容れることはできなかったと思う。

それに対して、藤子不二雄はいたって自由である。さっき夢想家と書いたが、むしろ「子どもをよろこばせるサービス業」と言ったほうが正確かもしれない。無茶苦茶でも子どもが面白がればなんでもよいのである。

どちらがスゴいとかスゴくないとか、エラいとかエラくないとか、そういうことではもちろんなくて、そこにはものごとを発想するとき、その出発点をどこに設定すべきかという重要な「教え」があるような気がしてならない。

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