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日々のことば もうひとつのバリアフリー・趣味とストレス・完全一致・推しが尊い

50.もうひとつのバリアフリー

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20年前、はじめて訪れたフィンランドでとても驚き、よってまた強く印象に残っていることがある。それは、福祉国家と聞いていたのに

全然バリアフリーじゃないじゃん!!!

ということだ。

道路は石畳でガタガタだし、段差もハンパなかった。これに比べたら、まだ東京の方がはるかにバリアフリーじゃないかと驚いた。さすがにいまはどうかは分からないが、たぶんヘルシンキの中心部などはそんなに変わらないのではないか。それに加え古い建物の多くには当然自動ドアなど設置されておらず、ヘルシンキ中央駅はじめ容易にひょいと開けるのはしんどいくらいの鉄製の扉がついているのがふつうだった。

ところが、日本とフィンランドの最大のちがいはこんなところに現れていた。たとえば、フィンランドでは、ベビーカー(北欧のベビーカーは頑丈そうなゴムタイヤを履いているものが多く、日本のそれと比べたらちょっとした重戦車級である)が来れば近くにいる誰かがナチュラルに手を貸してあげるし、重いドアにしても次のひとが来るまで開けたまま待っていてあげるのがふつうである。しかも、そうした行いに「いいことしてあげてる」感が微塵もないのがすごい。

つまり、困っているひとがいたら手伝ってあげましょうと呼びかける社会ではなく、そこは誰かが困るまえに、別の誰かの手がすっと伸びてくる社会であった。社会学の用語でいえば、当時のフィンランドは日本より社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)という点ではるかに「豊かさ」に恵まれている国という印象を持った。

完全なバリアフリーが実現した社会は、たしかにさまざまなハンディキャップを持つひとにとって暮らしやすい場所であることは疑いようのない事実であり、それは現代の社会が目指すべきひとつの指標であることはまちがいない。その一方で、現状を解決するための手段として、こうした

こころのバリアフリー

の共有を広く進めることもまた大切なんだよな、とそのときからずっとぼんやり考え続けている。

たとえば新幹線などで、背の高いひとが背の低いひとのために網棚の荷物を上げ下げするというのは比較的よく目にする光景である。困っているからやってあげるというよりは、自分の目の前にあるしょうゆ瓶を隣のひとに回してあげるくらいのライトさがそこにはある。これがミソだ(取ってあげたのはしょうゆ瓶だが)。

体格ひとつをとってもそうだが、ひとはみな違っていて当たり前である。得意なことも不得意なこともある。なので、なにかの問題に直面したとき、得意な方が不得意な方をフォローしてあげるというのはこの社会ではもっともシンプルな解決手段といえる。

20年前、フィンランドでぼくが目にした光景のベースにあるのはこうした合理的な考え方であり、それを支えるのはハンディキャップですら髪の色の違いや背の高い低い同様、すべての人間に備わった「差」にすぎないとみなす人間存在に向けられた圧倒的な「平らかさ」のまなざしなのではないだろうか。

51.趣味とストレス

ふだんほぼテレビを観ないので、世間の動きはたいていツイッターで把握するのですが、ここ最近はまた眺めているだけでしんどくなるようなニュースが多いですよね。3.11直後に近い気がする。

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