見出し画像

【映画】マグダレーナ・ヴィラガ Magdalena Viraga/ニナ・メンケス


タイトル:マグダレーナ・ヴィラガ Magdalena Viraga 1985年
監督:ニナ・メンケス

本作は長編一作目ということもあって、荒削りな部分があるが、映画の造りとしては、昨日観た「クイーン・オブ・ダイアモンド」と基本的な構造は似た感じではある。三度繰り返される観念的なセリフは、後からそれが何故繰り返されるのか説明が入るが、映画というよりも舞台劇のような雰囲気も持つ。マグダレーナというタイトルにある通り、宗教的な意味合いが色濃く娼婦とマグダラのマリアとイエス、魔女と娼婦(WitchとBitch)にかけたテーマが主題となっている。細かい事はパンフレットに詳しく書かれているので、そちらを読んで欲しいが、観念的なセリフに彩られた作品なのは間違いない。魔女である事を証左するために三度繰り返されるセリフは、物語を観念的な抽象さを醸し出すが、「クイーン・オブ・ダイアモンド」では抽象的な観念がセリフから映像へと転化し、セリフは情念へとシフトしている。そう考えると、この二作がラインナップとして選ばれたのはよく理解できるし、並べて観る事でその変化と、変わらぬ根底にある部分も炙り出される。作家性としての繋がりを鑑みると、この二作の繋がりの強さとそこにある普遍性が顕になってくる。
エンドクレジットで気付くのが、娼婦のもとへ訪れる男の名前が全てJohn/ヨハネであるという事。イエスへと導く者としてのヨハネという存在は、嫌々ながら従事する娼婦という仕事への福音を求めたものであるのかもしれない。聖書に精通していない事と説明が無いため、判別が難しい部分ではあるが、恐らくそういう事だろう。

シャンタル・アケルマンの「ジャンヌ・ディエルマン」やバーバラ・ローデンの「Wanda」との共通点を見出せるが、監督がこの二作を観たのは後になってからとインタビューで語っている。やはりこの二作は、ニナ・メンケスの作品に通じる感覚はあるが、自然発生の元に生まれたというのも重要な部分でもある。特にアケルマンの存在の大きさと、それに限らない問題の根深さを改めて感じてしまう。主題の時代を超えた同時発生の様は、アケルマンの存在を通したフィルターで観る事で映画への解像度は格段に上がってくる。女性だからと注目される事なく、バジェットも確保できなかったというのはケリー・ライカートも悩ませる要因であったが、取るに足らないものとして扱われてきた女性監督の負の歴史も顕になる。
それら女性監督の歴史へのコンテキストが前提となる作品ではあると思うが、グレタ・ガーウィグらの監督へと至る現在への視点としてはどうしても外せない部分でもある。単純に作品の凄みという点では「クイーン・オブ・ダイアモンド」の方が巧みではあるが、虐げられた女性の在り方を強烈に問うのは本作の方がストレートに伝わってくる。
クレアやもう一人の女性が果たして存在していたのか?アイダの妄想なのか?平原の中を逃げ走りながら処刑されるアイダは、果たして処刑されるべき存在なのか?女性だから改めて調べられる事もなく、冤罪を見積もらずに処刑されたのか?MeTooへとダイレクトに繋がっていくラストは、銃先と銃音が我々に向けられているのだと感じる。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?