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【映画】ブレインウォッシュ Brainwashed Sex-Camera-Power/ニナ・メンケス


タイトル:ブレインウォッシュ Brainwashed Sex-Camera-Power 2022年
監督:ニナ・メンケス

今回日本公開されたニナ・メンケスの三作の中でも一番分かりやすく見応えのある作品が本作「ブレインウォッシュ」だと思う。この映画は過去の映画のシーンをカットアップして、”Male-Gaze=男性の眼差し”を炙り出す事で、結果何が引き起こされてきたのかを問うドキュメンタリーとなっている。ニナ・メンケスの他の二作が言葉少なに女性の在り方を描くのに対して、ドキュメンタリーである本作での監督の饒舌さは、大学の講師を担ってきた経験からくるものだろう。意外と寡黙な作品の監督ほどよく喋る印象が、他の監督を見ていてもなんとなくではあるが感じる事は多い。
かつて映画祭で「クイーン・オブ・ダイアモンド」出品した際に、賞を取ってもバジェットを得られなかったという話を聞き、ケリー・ライカートのインタビューを読んだ時も同じ事を語っていた。ライカートと同世代のクエンティン・タランティーノはバジェットも公開規模も賞も拡大していったのに対して、予算を得られず映画制作だけでは生活出来なかったため大学の講師をしていたのは、ライカートもメンケスも他の女性監督も同じ境遇を味わってきた苦渋を物語っていた。
主体と客体という立場を生み出す映画という映像言語がいかに露悪的で、男性視点でものが作られてきたのかを5つの点で明らかにしていく。結果的にそれらは見ることと見られることから生まれる男性の優位性を自然と生み出してしまう。ゴダールの「軽蔑」で映画会社からの要請で、バルドーのヌードを撮影した場面が取り上げられるが、結局のところ観客への分かりやすい掴みとしての客体的な女性を、シンボリックに描く事の需要に無自覚なまま取り入れている映画の多さに改めて驚かされる。デパルマの「キャリー」のロッカールームで裸でわいわいやってるシーンを見ながら、監督が生きてきて今までこんな事一度も経験した事ないという言葉は笑ってしまう。
かつてはアリス・ギイなど女性監督が台頭していた時代があったが、時代が経つにつれて予算の縛りが強まると女性が排除されていった経緯にも触れられている。アリス・ギイ、シャンタル・アケルマン、バーバラ・ローデンらの作品は女性監督であるがために埋もれてしまった上での再評価が高まっているが、同様に改めて評価の高まるアニエス・ヴァルダ(「幸福」が取り上げられているが「冬の旅」がこの文脈では重要作)や、「ノマドランド」でアカデミー賞を受賞したクロエジャオ、現代の女性監督の最高峰ともいえるセリーヌ・シアマらの視点も大きく取り上げられている。特にヴァルダの男性の眼差しに対して「じっくり見返してやる」という言葉から繋がるシアマの「燃ゆる女の肖像」での客体から主体への転換はこの映画の本質を捉えている。特にこの映画は見ることと見られることを女性間で描く傑作だけれども、そこにあるシアマの非凡さにも気付かされた。
一方で、アカデミー賞を受賞した「ハート・ロッカー」のキャスリン・ビグローの様に、製作陣を男性が占めていて、作品自体も男性向けな内容のものもある。こういった作品の状況を鑑みるに、実社会に照らし合わせると、男性社会の中で生きることの縮図の様にも捉えられる。男性優位な中でそのルールに従って生きるか、それに抗い自分のスタンスを貫くかで社会的立場が大きく変わってくる。日本でも取り上げられているアケルマンやメンケス、ライカートらのスタンスが今の時代に強い共感を得ているのは、揺るぎないアイデンティティを保っている事だと思う。
惜しむらくは取り上げた映画で生存している男性監督にオファーしたところ、全員から辞退されてしまった事だろう。間に入った人間が忖度して断った可能性もあるが、男性側からの意見を入れる事が叶わなかったのはちょっと痛々しい。
冒頭のドゥニ・ヴィルヌーヴの「ブレードランナー2049」でアナ・デ・アルマスのヌードを出す必要があったのかも考えてしまう。しかし、この役柄が主人公との関係はプラトニックなものであったのに対して、もともとこのJOIというものがセックスツールであった事の虚無さを演出する事でもあった。映画のコンテキストをばっさりと切って断罪する事の危うさも内包している。客体への危機感と、演出の上での必要性に若干矛盾も感じていて、「ファンタム・スレッド」や「欲望」、「パリ・テキサス」、「チタン」の様な作品はむしろ男性側の虚無感や至らなさ、駄目さも描いているので、一様に映画のコンテキストを断ち切って取り上げるべきなのかは疑問が湧く。しかし、セクシャリティを押し出したものは概ね同意出来る。「ソイレント・グリーン」で知られるリチャード・フライシャーの「マンディンゴ」の暴力性はある種反面教師として、この映画の中でも痛烈に響く。
皮肉なのは女性=女優を輝かせるための演出が、返って無自覚に多くの女性を苦しませ、ステレオタイプな女性像を作り上げてしまった罪を長い年月と共に放置されてきてしまった現実が重くのしかかっている。美しさの基準が演出で作り上げられた虚像=アイコンである事の重み。日本の脱毛広告などでも語られているように、美しさの基準が現実には存在しない美である事に通じる。
男性に都合の良い女性の形というのも多く取り上げられているが、実体験としてあったのが本作では取り上げられなかったヴィンセント・ギャロの「ブラウン・バニー」(本作では「バッファロー66」が取り上げられていた)。女性の友人にこの映画を勧めたところ、自分勝手過ぎるとリアクションがあった。たしかにファラチオのシーンや、自分に都合の良い解釈が盛り込まれていて、亡くなった事を責めるのはあまりにも都合が良すぎる。メランコリーとセンチメンタリズムが男性優位な視点で描かれ過ぎな印象は否めない。当時クロエ・セヴェニーも悲観的な意見を述べていたのをよく覚えている。
主体と客体の在り方は、今後も意識しながら観る事の視点は重要だと思う。物語のコンテキストの上で必要であるかも、重要ではあるが無意味にセクシャリティを強調する描写や、性的な消費を促すような作品は改善されていくべきではないかとも思わされる。とにかく搾取の構造は取り除かれるべきだと思わざるを得ない。

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