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【映画】パラダイス・ナウ Paradise now/ハニ・アブ・アサド


タイトル:パラダイス・ナウ Paradise now 2005年
監督:ハニ・アブ・アサド

10月にハマスによる襲撃の後、イスラエルによるガザ侵攻が日々メディアの中で伝えられる。戦後から続くイスラエルとパレスチナの問題は、ここに来て一番の激しさを増し、結果パレスチナの多くの子供たちの命を奪っていく現実が重くのしかかっている。第二次大戦の贖罪としての意識からアメリカやドイツ、フランス、イギリスら西側諸国の対応は、イスラエルを擁護するものばかりで、パレスチナに暮らす人々の人権を踏みにじる体裁にはほとほと呆れるしかない。そして現在も続くロシアのウクライナへの侵略にも影を落とす。今起きている二つの民族紛争は、東西の抱えるアンビバレントな社会の成り立ちが如実に現れていて、真反対の正義が鏡合わせの様に横たわる。常に犠牲になるのは、戦争とは無関係な市井の人々であって、一部の人間の利権に振り回されるのが戦争の常である。ガザの人々が国を追い出される時、その場所は他人によって支配され戻る事の出来ない場所となってしまう。パレスチナの人々が戦火の中を移動しながらも残り続けるのは、彼らのアイデンティティでもある。かつて国を追われたイスラエルに住むユダヤの人々が、シオニズムの名の下に同じことを繰り返すのは理由にならない。ホロコーストの被害者の末裔が、新たなホロコーストを生み出すことの不条理。そしてそれを後ろ盾する西側諸国のダブルスタンダードに直面する現実に対しては声を上げなければいけない。
この映画は今の惨状に比べれば長閑な雰囲気がある。とはいえ切迫した切実な状況と、暴力で解決しようとする選択のラストは危ういものがある。しかし、自爆テロへ懐疑的だった主人公のサイードがテロを遂行しようとする中で、対話することこそ大事だと説くリベラルなスーハと、妄信的にテロを遂行しようとしながらもスーハとの会話からテロに懐疑的になるハーレドのコントラストがくっきりと浮かび上がる。この映画が優れているのは、映画としてエンターテイメントをもたらしつつ、パレスチナの人々の中にもグラデーションがある事が示されている。スーハという西側で育った人物がありながらも、対話する事で共存は得られるのではないか?という問いを残す。現状を鑑みれば、聞き入れる事なく詭弁を繰り返すイスラエル側との対話の難しさは苛烈な彼の地を見れば弱い議論でしかないと映るかもしれない。しかし、監督の意図する所はそんな状況でも対話を求める姿勢と、宗教的な観点での背に腹はかえられない状況への切迫感が日常の中に押し込まれている。
2007年に本作が日本で公開された時も緩すぎると批判される向きがあったが、彼らがどの様な動機で自爆テロを行って来たのかがあらゆるセリフで語られることは、今現在の状況を知る上で重要な視点と言える。民族浄化への危機感とディスコミュニケーションから、巻き添えを生み出す自死を選択しなければいけない状況が生み出される現実がある。正義と正義がぶつかり合う時に戦争は生まれる。テロを肯定するのではなく、イスラエルにもパレスチナにも市井の人々の暮らしがあり、そこには子供や弱者も多く存在している。子供を見れば決心は揺らぎ、戦闘員ら戦う人々をみれば戦意が向上する。
解決への糸口が見えない現実の中で、間接的に関わり合いながらも当事者でない我々がどの様な態度を取ればよいか?人権を無視した在り方は、劇中でも人権とは?と問いを残す。人権を踏みにじられる側に立つ事が、今するべき事であるのではないかとこの映画を通じて思わされる。

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