【映画】ショウイング・アップ Showing up/ケリー・ライカート
タイトル:ショウイング・アップ Showing up 2022年
監督:ケリー・ライカート
ケリー・ライカートの作品を初見で観終えるたびに、心の奥にもやもやとする感情が湧き上がる。その湧き上がったものを言語化出来ず、的確な言葉が頭に浮かばずさらにもやもやする。彼女の映画には特別な風景や人、物語があるわけでもないし(その反面今まで描かれなかった事柄が多分に含まれている)、映画の中で見慣れたモチーフばかりなのに違う場所へと誘われる。強烈な体験というわけではないのに、何かが確実に体の奥で疼いていく。
「ウェンディ・アンド・ルーシー」や「ファースト・カウ」はまだ分かりやすい部類だけれど、「オールド・ジョイ」や「ミークス・カット・オフ」、「ライフ・ゴーズオン(このタイトルはどうにかならなかったのか?)」ははっきりとしない曖昧な状況に落とし込まれる。現実に対しての迷いや戸惑いの最中で物語が終わるとでもいうか、それこそが日常であって人生の道半ばを描いているのかもしれない。
男同士であれ、女同士であれ、微妙な感情の揺れ動きと、型にハマったステレオタイプから少しずらして逸脱する彼女の表現は、派手な展開は無いし滋味という程には無闇な深みは生み出さない。よくある染み入る感動を呼び起こすようなドラマとは別の、煽情を削ぎ落とした、より自然な様に注力しているようにも感じられる。曖昧な感情表現から生まれる何かを感じ取れるかで、ライカートの作品の受け取り方は大きく変わってくるんじゃないかと。
映画の舞台はライカートが暮らすポートランドにあるオレゴン美術工芸大学。ミシェル・ウィリアムズ演じる主人公リジーは、美術専攻の学生たちに混じって、母と共に事務員を務める傍ら人形の陶芸制作に勤しむ。役名問わず登場する人物は皆ボヘミアンな雰囲気で、半袖シャツの季節に全身ニットの作品を着たり、気ままに踊っていたりとニューエイジなヒッピー然とした自由な風が吹いている。
リジーにとって障壁になっているのは、劇中何度も言及される家の給湯器が壊れている事だったり、その給湯器を中々直そうとしない大家で同じ美術家のジョーとの関係や、陶芸家の父と美術を専攻しながら心に問題を抱える兄とそれを擁護する母との関係(兄と母の関係は家父長的なものを感じさせる)が煩わしくも離れられない状態が日常化している。目の上のたんこぶというか、喉元に骨が刺さったままの状態というか、常にしこりが残り続けるように解決しない問題がついてまわる。しかしながらそれらが気になってしまい、結果的に気分転換というか気晴らしのような行動にもなってしまう所は面白い。
白人のリジーとアジア系のジョーという対照的なふたりは「ファースト・カウ」でも描かれたが、こちらは様相が異なる。経済基盤を持ちながら成功への足掛かりを得ようとしているジョーに対して、細かい問題が山積しつつ成功への足掛かりを見出せないリジーが対照的に描かれる。このふたりの存在は、恐らくライカート自身が体感した経験に即しているのではないだろうか?「リバー・オブ・グラス」で長編映画を撮り終えながらも、その後バジェットを得ることが出来ず十年近く放浪した事と、同年代のタランティーノの様な監督が順調に足跡を残した様子を傍目で見ていた経験が思い起こされる。女性であるがために予算を掴めない状況が生み出す苦渋。しかしそれを男女の関係に落とし込まずに、同性の中で描く事でより実直な姿で描く…というと単純化しすぎていると思うのだけど、安直な対立にしない所はこの映画の重要な部分である。スケール感のあるジョーの作品と、それに比べると物理的にも小さいリジーの作品の対比は、同じインディペンデントな活動の中にも規模感の大小があからさまな評価軸への視点がそこにある。
そういった視点で映画業界を鑑みると、タランティーノが所属したミラマックスと入れ替わる様に台頭したA24の在り方も興味深い。90年代のインディペンデントの世界と、10年代のインディペンデントの世界の違いが如実に現れてくる。ミラマックスの状況は「シー・セッド」や「アシスタント」で描かれたように男性優位な状況が醸成されていた。一方でA24が配給する作品群は男性優位とは別のオルタナティブな様相も含まれている。女性監督として絶対的な地位を確立しつつあるグレタ・ガーウィグや、マチズモと繊細さという表面と内面を織り交ぜた同性愛を描いたバリー・ジェンキンスなど、90〜00年代のマイノリティに対するアップデートに寄与したのもA24の側面である。かつてミラマックスのハーヴェイ・ワインスタインからヌード場面を要求されて対峙していたハル・ハートリーの「アンビリーバブル・トゥルース」に、ライカートが参加していた事は今から振り返ると象徴的にも思えてくる。
本作を撮るきっかけになったのは、カナダの画家エミリー・カーの1910年ごろの時代を題材にした企画が頓挫した事と、美術家のミシェル・セグレ(劇中のジョーの作品を監修した)とジェシカ・ジャクソン・ハッチンスを撮影した短編映画が発端となった。
さらにライカートがバード大学での講師の経験が、この映画と結びついたと語っている。
音楽についてはポートランドのイーサン・ローズがスコアを担当(以前ローラ・ギブソンと共に来日した事がある)。ガス・ヴァン・サントの「パラノイドパーク」などのスコアなどもやっていたが、最近はインスタレーションをメインに活動しているようである。
もうひとり、先日フルートを使ったアルバムをリリースして驚かされたアウトキャストのアンドレ3000がエリック役とフルートで参加している。