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分かりやすくすることと、難しくていいこと。

学生のころ、別の大学(高偏差値)に行っていた友達が持っていたテキストを読ませてもらったことがある。そこに書いてあるのは間違いなく日本語だったのだが、別の言語かと思うほどに理解できなかった。理屈はもちろん文章も難しいし前提となる知識もない状態で読むと、本はこんなに古代の巻物のように見えてくるのかと驚愕したものだ。
これ以来「やっぱり高偏差値大学は違う」という思いを強くしたわけだが、まあそもそもやっぱりこういうテキスト類は文章の面構えが違う。
「なるべく読みやすく、くだけた言葉づかいで」なんて微塵も考えてなくて「この理論を学ぶために理解できるやつだけがついてこい」という感じ。落馬上等、 スパルタ万歳なのである。
そんな中、今は「伝える技術」「1分で心をつかむメール術」みたいな本が多く書店に並んでいて、なんとなく「わかりやすく伝えられない方が悪い」という空気を感じる。これはこれでわかるところもあるし、適当な伝達しかしないのに「部下が理解しない!ついてこれない!」と憤るような人にはぜひ読んでほしいタイプの本である。その一方で、これらの「空気だけ」を流用して、「自分に理解できないものは理解させないほうが悪い」という風潮には疑問を感じる。疑問を感じる、みたいに当たり障りのない表現をしたが要はダメだろそりゃと思う。
難しいものは難しくていい。理解するために勉強している人たちがいるのだから、何も勉強しないのに一足飛びに理解できるわけがない。
もちろん、難しいものを分かりやすく解説しようとする人の存在がいけないわけではない。入口としての価値はあると思うし、「漫画でわかる●●」から入って興味を持ったという例もあるだろう。
自分も子供のころ「学研のひみつシリーズ」を愛読していたものだ。知識がこのころからあんまりアップグレードされていないが。
余計な例を挟んだがその前に書いた通りあくまで「入口」である。「その本知ってるぜ、漫画版で読んで理解したぜ」じゃなくて、最終的には原書も読めよ、という話になるだろう。まあ興味持てなかったら別に読まないだろうけど。

なーんだか特に最近「知る権利」あたりから流用が目立つというかほんと上澄みすくったらもう満足!みたいになってきて「知るための努力」みたいなもんがなくなってきてるんじゃないか?と勝手に思った次第である。「ファスト映画」とか「倍速視聴」もそういう流れに乗ってできたものだろうか。まあ情報系の動画などはしゃべりの空気とか間が必要なわけじゃないので倍速視聴したくはなるが…まあそもそもそういう動画ほとんど見ないが。

ちなみにこんなことを書いてるといかにもめちゃくちゃ勉強していろんな本を理解しようと努めているみたいだが、ほとんどライトな本しか読んでおりません。
骨太のSF小説なんか理論的な部分がもうさっぱり分からないのだが、まあ面白いものは筋そのものが面白いからいいのだ。

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