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【遺書3】怒られるのが怖い、とか

自分は何でこんな小さなことで悩んでしまうのだろうとよく思ってきた。

自分にとってその悩みは決して小さなことではなかったということなのだろうか?

悩みの大きい小さいの定義とは何なのだろうか。

そういうことを考えてみたときに、ほかの人ならどう感じるのかという目線に立って考えてしまうことが多いのだと気づいた。

つまり、自分は気になるけどほかの人なら気にも留めないこと=小さなこと。

自分も気になるし、ほかの人でも流石に気にするだろうと思えること=大きなこと。

悩みの大きい小さいの尺度・定義に関しても自分がどう感じるかということよりも、ほかのみんながどう思うかによって決めてしまっている気がする。

ずっと人の目を気にして生きてきた。

ずっと人の顔色を窺って生きてきた。

その自負がある。

あらゆる物事の判断基準や定義や尺度がほかの人なら普通どう感じるだろうか、ということになって言うのだと思う。

どうして他人の目を気にするのか。

顔色をうかがうのか。

一言で表すならば、怒られたくないからだ。

確かに、怒られたくないという感覚はずっとあった。

怒られたくない。

怒られるのが怖い。
怒られてはいけない。

でも、怒られること自体が嫌なのだろうか。

少し違う気がする。

怒られることで自分の居場所が脅かされることが嫌なのだろうか。

怒られること=相手の期待に応えられなかった、と感じるからだろうか。

相手を失望させてしまった。

もう自分は用済みの存在。

そんな風に感じるからかもしれない。

大人になってから怒られる場面というのは少ないほうの人間だったと思う。

むしろ、どちらかというと”優秀”と思われるように振舞ってきたし、実際にそう思っていてくれた周りの人は多いのではないかと思う。

会社に大損害を与えるような失敗をした経験もないし。

それなりにうまく、その場を切り抜けてきた経験のほうが多いはずだ。

にもかかわらず、怒られたくないという感覚は全く色あせない。

自分の中にずっとある。

仕事や社交の場面で相手の顔色を窺わないことは決してない。

常に相手に怒られるのではないかという緊張と不安の中で振舞っている自分がいる。

だからこそ、成功の積み重ねというやつを信用できないのだ。

いくらうまくいっても、何も変わらない自分がいるから。
なんど成功したって、怒られるのが怖い自分はここにいるじゃないか。

怒られないようにするとか怒られた時の対処法とかいろいろあるようだ。

そんなことを求めているわけじゃない。

根本をどうにかしなきゃいけないと思っていた。

でも、自分は変わることはできないのだろうと思う。

怒られるのが怖いということに関してだけではない。

自分の内面や性格や精神的な部分について、昔と比べて成長したとか180度考え方が変わったとか、そうした経験が全くない。

書籍に手を出してみたり、カウンセリングを受けてみたりして、いろいろな考えを表面上インプットしたけれど、自分の心根が変わることはなかった。

納得できることはなかった。

だから、これからも変わらないのだと思う。

きっと、常に怒られるのが怖くて、嫌で、できるだけ避けて、というふうに過ごす。

慣れて、平気になることなどないことはもうとっくに分かっていた。

何か新しい考え方を手に入れて180度受け止め方がガラッと変わることなどないと分かった。

自分は変わることなどない。

きっとこのままだ。

そして、たぶんそれでいいのだとも思うようになってきた。

そのままの状態でもなんとかやりくりできるようにしていくほうが大切なのかな、と。
自分を成長させることなどあきらめた。

自分を変えることなどあきらめた。

余計なインプットもしないようにする。

そんな風に死ぬまで逃げ続ける。

嫌なこと、苦手なこと、困難、そんなものを乗り越える、克服することは自分にはできないということを認めよう。

自分に期待しすぎていたのだ。

自分にはそんな気力はないのだ。

目を背けて、逃げて、避けて、そんな生き方しかできないのだと認めよう。

自分の本心を否定するな。


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