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一匹と九十九匹とZOZO前澤社長と

話題になってる白饅頭氏の論考より。批判を受けている前澤社長の言動について。

【ZOZO前澤社長「100万円バラまき」に感じるモヤモヤの正体】 #現代ビジネス

個人的には、このモヤモヤの正体を、自分なりにアレコレ考えてみようかと。これはFacebookとかのような、勝ち組がより勝つための仕組みのようなモノへの、潜在的な反発とも重なる気がします。 
※noteの機能も増えましたし、加筆修正して有料版にします。3分の2は無料で読めます。有料部分も大した内容ではないのですが、どうも無料では投げ銭してくれない人でも、一部を有料にすると100円とか300円は払ってくださるので。お得感の問題なんでしょうね。


■ルサンチマン■

その正体は、ただのルサンチマンなのかもしれないですけれど。ちなみにルサンチマンというのは、弱者が強者に抱く怨恨のこと。なぜアイツが金持ってる・才能に恵まれてる・権力を持っている・恋人がいるのに、自分がなぜ恵まれないんだという、ぶっちゃけ逆恨みみたいな、ドス黒い感情のことです。

これが福田恆存の『一匹と九十九匹』論にも繋がるのかもしれないかも……というのが自分の直感でした。福田恆存は保守派の論客で、東大の英文科卒。劇作家や演出家でもあり、財団法人現代演劇協会を設立。小説『チャタレイ夫人の恋人』で知られるD. H. ローレンスの『黙示録論』を翻訳して、キリスト教のヤベェ部分に気づきます。

俗流マルクス主義が薄まった日本の左派の思想を、バッサバッサと切りまくって、対左翼連戦連勝の論客でした。あまりにも切れ味が鋭すぎて、保守派論壇のボスザルだった猪木正道に睨まれ、干されてしまったほど。ところが福田にまったく勝てない左派が、逆に福田を評価し、西部邁氏など学生運動の面々が、保守派に転向するきっかけにもなった部分もありました。


■一匹と九十九匹と■

「一匹と九十九匹と」は、聖書のルカ福音書15章の言葉。「汝らのうち誰か、百匹の羊を持たんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野に置き、失せたるものを見いだすまでは尋ねざらんや」という言葉を元にした、福田恆存の代表的な論考です。たった一匹のために残りの九十九匹を放置してでも、捜すのが神の教え。しかし現実には、そんな事はできませんよね。

そこから福田恆存は、九十九匹のためにあるのが世俗の政治であり、一匹のためにあるのが宗教や芸術──文学や絵画や音楽や演劇──といったものだと喝破したのです。政治に宗教や芸術を持ち込んでは、混乱の元になる。政治は最大多数の最大幸福を追求するのですから、当然ですね。福田はそこを分けて論じることを示したわけです。

そういえば、ツイフェミと呼ばれるお気持ちファシストがポスターやキャラクターにイチャモンをつけるとき、「こんなの性の商品化だ、芸術じゃない!」とか言いますね。あれも無意識に自分お判断基準と芸術を、政治に持ち込んでいる実例。雑なまとめ方なので、興味がある人は『福田恆存評論集〈第1巻〉一匹と九十九匹と』をどうぞ。


■大衆の本音■

ずいぶん昔、アメリカので調査で、あなたがコンピュータにやって欲しいことを聞いたら、上位のふたつが風呂の掃除と芝刈りだったことがあります。アメリカ人の庭の芝刈りに対する思いが見えますが。つまり、大衆にとって「なんだか良くわからないが便利なモノが出来てらしいが、それに期待することは面倒くさい労働」であって、クリエイティブなことではない、ということです。

クリエイティブ……というと、何やら高尚に聞こえますが、別にそれで絵を描くでも音楽を作るでも、簡単なゲームを作るでも良いのですけれど。でもそんなことをパソコンに期待するのではなく、大衆が求めるのは風呂掃除と芝刈り。昔だったら奴隷にやらせてた労働ですよね、それ。でも、大衆の本音とはそういうモノなのかもしれないです。

さて、ここで重要な問題が出てきます。例えば、お釈迦様。小国とはいえシャキーア族の王子様で、何不自由なく育って、妻も子もあって、傍目には幸せな人生です。でもゴーダマ・シッダールタ王子ご本人は、生老病死の苦から人間は逃れ得るか……という深遠な問題を抱えて、ついには地位も妻子も捨てて、出家してしまいます。


■迷える子羊は弱者か?■

自分たちは「迷える小羊」などと言われるとどうしても、こういうお釈迦様のような、高邁だったり崇高な精神性を持った人を想定しがちです。しかし、政治が救うべき人間というのは、十把一絡げにできるような平凡な人間であり、取り立てて優れてもおらず劣ってもおらずの人々です。上・中・下で言えば分厚い中間層。

ところがこれが、何か突出しちゃった人間は、例えそれが犯罪者とか下層に思える人間であっても、九十九匹ではなく一匹の側に入ってしまうことがあります。聖書だと罪深き女とされたマグダラのマリアとか。彼女は娼婦でしたが。日本でも、親鸞の悪人正機説なんてのもあります。芥川龍之介の小説『羅生門』でも、善に生き餓死すべきか悪人になって生きながらえるか……と悩む下人が主人公です。

要するにベクトルは違っても、善にも悪にも突出した形で生きる人間は一匹の側に至る、ということです。ジョージ秋山先生の『アシュラ』という作品も、テーマはこれに近いです。あの作品は、人を殺し生きるために人肉を食ったアシュラという悪人が、正機するお話ですから。


■衣食足りて礼節を知る■

政治は煎じ詰めれば、国民を飢えさせない、食わせること。こう言ってしまうと身も蓋もないですが、中国史上最高の宰相(王様に任命された総理大臣のようなもの)とされる管仲夷吾は「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と喝破している訳で。だいたい2700年ぐらい前の言葉ですが、政治の本質を言い表しています。

人間はまず、生存本能を満たすことが最優先で、それが満足して初めて礼節(=文化)にも関心が向くし、最低限の衣食住ができて名誉とか恥とか体面とかが出てくる。民主党政権……というか日本の左派の政治活動はしょせん、金持ちの道楽という問題が、ここで出てくるわけです。西武セゾングループの辻井喬こと堤清二氏や、中世研究の網野善彦氏など、お金持ちのボンボンは、東京大学に入って共産党に入るというルートを辿りがち。

お金持ちの子供というのは、自分が努力したわけでもないのに恵まれた環境にあることに、負い目に感じるようで。これは手塚治虫先生や高畑勲監督、宮崎駿監督も同じ。だいたい、60年安保や70年安保の頃の大学進学率はとても低く、1959年で10.1%、1969年で21.4%という低さ。56%になろうとする現在の進学率とは違って、富裕層が行くもの。学生運動は富裕層やエリート層の道楽です。

「いや、おれは貧乏だったが苦学して自分で授業料を工面した]と言う人もいるでしょうけれど。あのね、本当の貧乏というのは中学出たらすぐ働いて家に金を入れないと弟妹の飯にも困るような、うちの親父のような貧乏です。子供が働かなくても・働いた金を自分の学費に当てられる余裕がある家庭を、貧乏とは言いません(キッパリ)。だいたい、あの頃の国公立の大学の授業料は安かったですから。


■唐様で書く三代目■

さて、パソコンに期待する労働の話に戻して。これが王侯貴族なら、単純労働や面倒くさい労働を奴隷に押し付けて空いた時間を、ひたすら浪費する人に分かれるでしょう。しかし一部には、金儲けやら芸術やら学問やらに使う人もいるでしょう。貴族というのは、ある時代までは文化の牽引車でもありましたから。

ところが、風呂掃除や芝刈りを期待する大衆の多くは、例えパソコンが肩代わりして、空いた時間はどうするかと言えば。酒を飲むかパチンコを打つかゲームをするか……。いずれにしても根本敬先生の描く底辺の人っぽい使い方をするのが、容易に想像できます。酒でも、良い酒を利き比べるとか、建設的なことはできますが。

江戸川柳に「売り家と 唐様で書く 三代目」なんてものがあります。唐様というのは、江戸時代に学者の間で流行した書風のことで、教養あふれる書体で売り家と書いている。三代目になって、道楽に金をつぎ込んで、家を売りに出さざるを得なくなったことを、皮肉っています。現代なら、フランス語で売り家(maison a vendre)と書くイメージでしょうか?


■バロン薩摩は成金か?■

確かに、零落は悲しいことではありますが、笑うようなことなのか。例えば、画家の伊藤若冲。彼は裕福な青物屋の息子に生まれますが、とっとと引退して画業に専念(実際は隠居後も町内の有力者としていろいろ動いていたようですが)。晩年は天明の大火で自宅が焼けて困窮し、米斗庵と称し米一斗で絵を書いていたとか。でも、裕福ゆえに彼の作品は画材に高級品が使われ、今日でも色褪せず大変人気が高いです。

例えば、バロン薩摩こと薩摩治八郎。彼はフランスでの10年間で約600億円を一代で散財して素寒貧になりましたが、フランス人で彼を成金という人はいない、とはポール・ボネこと藤島康介……じゃない、藤島泰輔氏(ジャニーズ事務所の女帝・ジェリー藤島さんお夫です)の評価。

バロン薩摩には、日仏の交流と若き人材への投資、芸術家のパトロンとしての確かな目もあった訳で。そうなると、酒や博打で身を持ち崩す金持ちのボンボンとは一味違うし、身を持ち崩した人間もそれはそれで、生き様が伝説になったりします。そう考えると金持ちの道楽もまた九十九匹の側ではなく、一匹の側の論理に入るでしょう。


■かもめのジョナサンの問題■

さて、その視点で見ると、福田恆存の一匹と九十九匹論もまた、難しい問題をはらんでいます。生きていくには不要な、余計なことを考えて鬱々と悩む一匹というのは、最底辺の一匹ではなく、孤高の一匹ですから。それはリチャード・バックの小説『かもめのジョナサン』の主人公であるカモメの、ジョナサン・リヴィングストンのような存在。経済的には困窮していても、精神は孤高の人。

ちなみに、カモメのジョナサンは、他のカモメが生きるために飛び餌を取るのに、彼は飛ぶこと自体に価値を認め、ひたすら飛び方を追求する異端児。まさに、一匹の側の人間。あ、いやカモメか。そもそも、悔い改めよ神の国は近づいたと説くナザレのイエスも、自分自身が一匹の側の人。

ゆえに、最後は磔刑になったわけで。このキリスト教の強い影響を受けたのが、カール・マルクスの共産主義思想です。キリスト教に改宗したユダヤ人の家系というコンプレックスを持つマルクスは、チャールズ・ダーウィンの進化論の影響を受けて、科学的な思想として経済価値説や唯物史観を打ち出したわけですが。


■丘の上の愚者は賢者■

しかしその実態は、最後の審判で異教徒たちは皆殺しにされ、信者のみが至福千年の神の王国に入れるという、千年王国思想の焼き直しでした。本人はその影響に無自覚でしたが。共産党は絶対的に正しいので最後は一党独裁になるという発想は、全知全能の神の支配の世界が来る、の焼き直しなわけです。

日本のリベラルというのは、この共産主義思想が世俗化し、さらに薄まった思想がベースです。思想というか、気分みたいなものでしょうか。自分たちを孤高の人や殉教者になぞらえるナルシズムは、実はここが由来です。朝日新聞の論説委員だったか編集委員だったアフロ記者が、滑稽な理由です。

最底辺でも、仕事は楽したい・金があったら酒と遊びで浪費したい・未だに空白の一日事件をネタに美味い酒が飲めるタイプと、ビートルズの歌う丘の上の愚者・犬儒派の始祖アンティステネス・その弟子で犬のような生活を送った「樽のディオゲネス」とでは、内実が違うと思われてる。そして、前澤氏が金を配るのは後者。

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