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五島勉氏と人類滅亡と宮崎駿監督

大ヒットした『大予言』シリーズで、60年代以降生まれのちびまる子ちゃん世代にはお馴染みの五島勉氏が先月、亡くなっていたそうです。享年90歳、大往生と言える長寿だとは思います。1973年(昭和48年)に『ノストラダムスの大予言』を執筆し、祥伝社から刊行。ブームになったのは80年頃で、ウチの中学校では10年遅れぐらいでブームになっていましたね。自分の小遣いで祥伝社の本を買えるようになって、友人が購入して回し読みしていました。

『「ノストラダムスの大予言」、作家の五島勉さん死去…90歳』

五島勉氏 90歳(ごとう・べん、本名・後藤力=ごとう・つとむ=作家)6月16日、誤嚥(ごえん)性肺炎で死去。告別式は近親者ですませた。

シリーズの第2巻が1979年、第3巻が1981年と矢継ぎ早ですから、本格的なブームはこの時に来た感じですね。映画『ノストラダムスの大予言』は1980年にテレビ朝日系でTV放送され、テレビの特番でも放映され、『ちびまる子ちゃん』のネタとしても登場していましたね。小学生だった自分も、覚えています。同じようなジャンルの『ファティマ・第三の秘密』が1981年、シリーズ第4巻が1982年、『ノストラダムスの大秘法』と『第三の黙示録』が1983年ですから、70年代後半から80年代前半までブームがず〜っと続いていたのがわかりますね。自分も楽しんだ口ですが、この件に関して批判的な言説も見かけました

江戸仕草批判の第一人者である原田実先生も、苦笑されていますが。楽しむことと批判は、両立するんですけどねぇ……。ということで、自分がガキの頃の思い出話や、70年代や80年代を知らない若者のために、あの頃の空気をちょっと書いてみたいと思います。どうせ長くなるでしょうけど。なお、いつものように、随時加筆します。


■70年代の終末論■

終末論というのは、Wikipediaでは以下のように説明されていますが、雑にまとめてしまえば世界が滅びるという世界観のこと。

社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方がある。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものである。

そもそも70年代というのは、今から振り返ってみれば日本の経済は順調だし、文化的にも漫画やアニメという、後に世界に通用する新興文化がガンガンに伸びていた時代なのですが。ところがリアルタイムでは、みんな不安を抱えていました。そもそも60年安保から70年安保までの10年間で、過激派の学生たちが暴れまわり、内ゲバ殺人事件なども起きて殺伐としていた時代です。1971年から1972年にかけて連合赤軍が仲間を16人もリンチ殺人する事件(山岳ベース事件)が起きています。1971年8月15日、時のニクソン大統領が米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言、第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)が起きます。

自分が小学生の頃は、ニュースでは必ず円高ドル安という言葉が出てきていました。それ以前は1ドル360円の固定相場だったのが、変動相場になってどんどん円は高くなり、1978年には200円を切るような急激な円高が始まり、もう日本の輸出産業は終わりだぐらいの感じでマスコミは報道していました。90年代後半に1ドル80円代を経験してみると、まだ全然大丈夫だったんですけどね。1973年10月6日には第四次中東戦争が勃発、これに伴いオイルショックが起きます。1979年にはイラン革命が起き、第2次オイルショックが始まります。水俣病や川崎喘息、イタイイタイ病など公害は激しく。行き過ぎた公害への批判が1971年公開の『ゴジラ対ヘドラ』でも描かれました。

加えて、氷河期が来るという学説が人口に膾炙くし、人口爆発によって食糧危機が起きると言われ、実際は暗い未来しか予想できない感じでした。1960年に30億人に達した世界の人口は、1974年には40億人に達し、1987年には50億人に到達しましたから。当時は人口の増加に食料の増産技術が追いつかないと思われていましたから、人口爆発による戦争や人類の滅亡はリアリティがありました。実際に、1979年に始まった『機動戦士ガンダム』においては、増えすぎた人口をスペースコロニーに移住させるというアイデアがベースにあります。聖悠紀先生の『超人ロック』にも、爆発的に増加した人類をコールドスリープさせ、新発見した銀河系の他の惑星に移民させるという話が、何度か登場します。氷河期どころか地球温暖化が騒がれ、コレも今となっては……、ですが。


■暗い未来が描かれまくった70年代■

1972年から漫画とアニメが始まった永井豪先生の『デビルマン』では、人口が増えすぎると昔は戦争が起きて、人口調整されていたが、今の時代は核戦争が起きてしまうので戦争がおいそれとは行えない、なので謎の猟奇事件(デーモン族に人類が食われた事件)を、新たな人口調節弁だとヨタ話をする主人公・不動明の高校の同級生が描かれていましたが。そのデビルマンも言うまでもなく、最後は人類は滅亡してしまいます。1975年からテレビ放映が始まった川内康範先生企画の『正義のシンボル コンドールマン』でも、食糧危機の時代設定。1976年から連載が始まった横山光輝先生の『マーズ』の場合、人類滅亡どころか地球という惑星自体が宇宙から消失してしまいます。リアルタイムで読んでましたが、最終回は本当に凄かったです。

1974年に放映が始まったアニメ『宇宙戦艦ヤマト』は、ガミラス星人による核攻撃によって地球は滅亡の危機に瀕しています。地球はイスカンダル製のコスモクリーナーのおかげで助かりますが、イスカンダルと連星のガミラス星は滅びてしまいます。この流れの中で1978年に始まったのが、宮崎駿監督の『未来少年コナン』でした。核兵器をはるかに超える超磁力兵器によって、五大陸は海の底に沈んで、人類は滅亡こそしませんが、大激減した未来が舞台。大予言の最初のシリーズが発売された1973年というのは、そういう時代だったというのがよくわかります。五島氏だけが滅亡の恐怖を煽ったわけではないのです。

いや『未来少年コナン』は滅亡からの復活を描いており、明るい希望を描いている───という擁護もあるでしょう。いえいえ、五島勉氏の大予言も、最初に読者を脅して恐怖を煽り、不安にさせておいて最後に希望を与えるという、ホラー作品などでよくある手法としては一緒です。ブームに乗って、煽りが強くなったのも事実ですが、前半部分を切り取って強調したのはマスコミ。『未来少年コナン』だって、ラナやコナンは何度も死にそうな目に遭遇しますからね。破滅の未来を描くのがダメだと言うのならば、1984年に公開された宮崎駿監督の代表作『風の谷のナウシカ』はどうでしょうか? 実はコナンとナウシカは物語の骨格がほぼ同じで、ナウシカの場合はコナンよりもっと暗い未来が描かれています。


■宮崎駿監督の迷走■

腐海は人類が汚してしまった地球を浄化する存在として描かれていますが、作中でペジテのアスベルがいみじくも語っているように、その浄化機能は認めるにしても、腐海がこのまま地球を覆い尽くせば、人類の滅亡は不可避。映画は最後に腐海の底でチコの実が芽吹くシーンで終わるため、何やら明るい未来を予感させて終わっていますが、論理的に考えれば地球と人類の未来はアスベルの予想通りになるしかないですよね? 漫画版のナウシカでは、そこら辺の矛盾が宮崎監督も消化できなくなってしまい、森の人など共存する人類を描いたり、腐海の瘴気の濃度の違いなどを表現していますが、評論家の佐藤健志氏が指摘するように、迷走としか言えないです。

普通に考えれば、トルメキアのクシャナのように、巨神兵を使って腐海を焼き払うというのが、責任ある為政者の態度でしょう。人間中心主義(ヒューマニズム)とは本来、そういうことも含むわけで。どうも映画版『風の谷のナウシカ』を作っている最中に、宮崎監督も薄々その点には気づいてしまったようで。映画の冒頭で風の谷のナウシカのタイトルが登場するシーンのタペストリー、よく見ると上半分はナウシカを象徴する青い背景に白い翼(メーヴェ)の女性のカットで、クシャナを象徴するトルメキアの双頭の蛇の紋章と火の赤色と武力を表す剣が描かれた、下半分なんですよね(下に画像をアップしておきました)。つまり本作は、二人の王女の対立の物語。この結果、映画の上映後も連載が続いた漫画版は、クシャナが主人公的な展開になってしまいます。ついには戴冠せず代王となり、トルメキア中興の祖となりますし。この王政の肯定は、大事なポイント。

暴走する王蟲の大群前に身を呈して立つというナウシカの行動は「至誠天に通ず」という態度で、そもそも神頼み。神風待ち。もっとも作中では風が止まりますが。ちなみに、安倍総理が揮毫するときに至誠はよく書くようです。それはともかく。岡田斗司夫氏も指摘しているように、巨神兵で腐海を焼き払うクシャナの態度の方が、唯物論的には正しいわけです。しかもナウシカのあの手法、一種の特攻ですよね? 手塚治虫先生の『鉄腕アトム』のアニメ版にしろ雁屋哲先生原作の『男組』にしろ宮崎監督のナウシカにしろ、思想的には左の人たちがことごとく、主人公に特攻させるという逆説。これ、重要。東映動画では熱心な組合運動員であり、高畑勲監督の影響を受けて共産主義思想に傾倒した宮崎駿監督からしてみると、これは許されざる保守反動、あるいは右翼の思想。

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■科学を克服するのは……■

この結果、ナウシカのラストを30点の出来と高畑勲監督に批判され、激怒した宮崎監督は『もののけ姫』で、文明と自然の対立をどう落とし前をつけるか、再び描くしかなくなってしまったわけです。こうして誕生した1997年の『もののけ姫』のエボシ御前とサンは、クシャナとナウシカの焼き直し。神棲まう森を開発し製鉄を行い自然破壊しつつも、誘拐や身売りをされた女性を救い、本来は女人禁制の製鉄(大鍛冶)の仕事をもたらし、おそらくはハンセン氏病の人々も差別せず鉄砲製造(小鍛冶)の仕事を与え、得た利益を再配分するエボシ御前は、かつては身売りされ大陸の海賊(倭寇)の愛人だったという虐げられた弱者で、実力でのし上がりついにはその倭寇の首魁をぶち殺して自分がトップになり、最新科学技術の石火矢(鉄砲)を持ち帰った、ある意味理想的な指導者。

蹈鞴場(たたらば)は共産主義者が夢見た、理想的コミューン(基礎自治体)です。でも、花崗岩を崩し水に流して砂鉄を採集するカンナガシ法での製鉄は、水を汚すんですよね。元祖自然破壊。あ、自然破壊の元祖は農業ですが。宮崎駿監督が好きな麦がたわわに実る風景、あれは他の植物を引っこ抜いて群生しない植物をムリに密集させて植えている、自然破壊です。エボシ御前が森のシシ神を殺すことによって、蹈鞴場の民たちは一時的に危険な状態に陥りますが、結局は首を返すことによってなんとか治ってしまい、なんとなく大団円になってしまっていますが。けっきょくは神殺しの肯定(宮崎監督の意図は、シシ神の力はアシタカに継承されたと暗示しています)。モロの君や乙事主が死ぬのは、王蟲や腐海の蟲を焼き払ったのと同じ。エボシ御前はモロの君に右腕を食いちぎられますが、これは腐海の蟲に左手を奪われ義手のクシャナと、まさに重なる象徴性です。

もののけ姫はもともとのタイトルが『アシタカ聶記(せっき)』です。聶記とは宮崎監督の造語で、口から耳へ耳から口へと伝えられた口承神話のイメージだとか。口偏がつく囁(ささや)く、という漢字の旁(つくり)の部分がそうですが。囁の元の字が聶。手偏が付く攝の字は「執る」とか「持つ」の意味の他に「統べ治める」の意味もあるとか。あの作品は本来、後に蝦夷(えみし)の王になるアシタカの伝説を描いたもの。何やら自然が大切というようなメッセージで終わったように感じる『もののけ姫』ですが、要するに神は殺された後の世界は、エボシ御前の論理に従った世界が広がっていくということ。程度の差はあれ、文明肯定の世界。例えアシタカ自身は、中央政権=朝廷とは距離を置いた、蝦夷の王して善政を敷いたとしても、です。


■世界が滅ぼせないなら…王政回帰?■

アシタカはサンとカヤを妻として娶り(一夫多妻制)、製鉄の技術や農耕も村に持ち帰ったかもしれません。でもそれ、環境破壊ですけどね。でもアシタカ王が統治する非農耕民の王国って、宮崎監督らが理想とした共産主義のコミューンとは逆の、否定すべき世襲の王権なんですけど……。天皇制は否定して、地方王権はいいって、恣意的です。それなら実権のない現代の象徴天皇制も、立憲君主制として肯定すべきでは? 漫画版のナウシカのワンシーンのように、瘴気が澄んでも瘴気、人が死ぬのに。誤魔化しちゃってる。もっともスタジオ・ジブリ自体は、宮崎吾朗監督に世襲させようとしていますから。いずれにしても、現在の文明を否定しようとしたら人類滅亡を肯定せざるを得ず、人類の滅亡を否定しようと思ったら科学文明を肯定せざるを得ず。

70年代にさんざん言われた食糧危機も、バイオテクノロジーや各種科学の発達によって今は、さほど騒がれていません。どうやら人工も、130億人ぐらいまでなら大丈夫そうですし。宮崎駿監督は一貫して反原発のポジションでもあるのですが、その原子力発電所さえも、一次冷却水にヘリウムを使う超高温ガス炉など、第四世代原子炉では炉心溶融が起こらない、安全な構造が実現できそうな感じ。来年には中国が実験炉を稼働させそうで、日本もかなりの高温を実現でき、水素生成や製鉄にも使えそう。けっきょく対案もなく批判するだけでは、専門家の地道な研究の積み重ねには勝てません。

行き過ぎた科学文明に警告を発するのは、チャップリンの『モダンタイムス』の昔から変わらぬ文化人のパターン。でも、今から見るとチャップリンの危惧より文明はずっとずっと進んでいます。けっきょく、科学を克服するのは科学しかないという、悲しい現実。今の科学だって100年後には「癌が死因トップだなんて、21世紀の人はなんて不幸だったのだろう」と言われている可能性大です。亡国病と呼ばれた結核も、今では治る病気(耐性型なども登場していますが)。現在の白内障の手術とか、目を切り拓いて水晶体を人造のモノに入れ替えるとか、江戸時代の人から見たら奇跡……いや魔術でしょう。それだって未来では、再生医療で目玉ごと入れ替えてるかもしれず。

【7行まとめ】
・マスコミはいつの時代も無責任にあおる
・終末論はいつの時代・場所でも出現する
・70年代は終末論的な作品が盛んだった
・外れた予言は忘れられ繰り返し出現する
・警句を発する立場は批判されづらく安全
・科学技術は万能ではないが無力でもない
・文明と自然は必ず対立するモノではない

なんか、思い出話を書こうと思ったのですが、けっきょくは宮崎駿監督の話になりましたが。ちなみに、ライバルの富野由悠季監督は、コナンを採り入れて『戦闘メカ ザブングル』を1982年に制作します。アムロとか物憂げな陰気キャラとは対象的なジロンは、コナンがモデルというか手本。名前も似ています。そして、支配階級のイノセントと庶民階級のシビリアンの階級社会が描かれますが。シビリアンが砂漠の星になってしまったかつての地球=惑星ゾラで、シビリアンはイノセントによって環境変化に耐えられるよう人工的に作られた人間。ありゃりゃ、漫画版のナウシカたち人類の設定ですね。この二人の監督のライバル物語も、興味深いのですが、それは機会と需要があれば。

ということで、無料部分はここまで。
というか、ここまででもう充分でしょう。残りは蛇足的な終末論と宗教の関係のお話ですから、興味がない人は読む必要もありませんし。Twitter で今まで自分が繰り返し書いてきたことなので、知ってる人には周知の内容ですから。
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