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社会学者古市憲寿氏の誤謬

◉社会学者の古市憲寿ふるいちのりとし氏の、急逝された鳥山明先生へのテレビ番組での追悼コメントが、デイリースポーツに掲載されているのですが……内容がデタラメなので、各方面からツッコミが入っています。自分も一読して、あまりにも酷い内容なので、呆れました。なので1950年代から1980年代にかけての、漫画がどのような形で隆盛し、社会に受け入れられていったかの、浅学ながら大雑把な流れを書いてみたいと思います。

【古市憲寿氏「日本の漫画の歴史変えた」と急逝の鳥山明さん追悼 漫画を「日本のステキなカルチャーにした功績めちゃくちゃ大きい」】デイリースポーツ

 社会学者の古市憲寿氏が10日、日本テレビ系「真相報道バンキシャ!」に出演。1日に68歳で亡くなった漫画家の鳥山明さんを追悼した。

https://www.daily.co.jp/gossip/2024/03/10/0017417048.shtml

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、メイプル楓さんのイラストです。

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■劇画誕生は50年代後半■

古市氏は1985年(昭和60年)1月14日生まれ、ギリギリ30代ですか。でも『Dr.スランプ』は週刊少年ジャンプ1980年5・6合併号から連載が始まって、1984年39号で連載終了。つまり、生まれる前のことを滔々と語っています。『ドラゴンボール』は1984年51号から1995年25号までの連載ですから、こちらさえラストの3年から5年ぐらいしか、読んでいないのではないでしょうか? それでは、おかしい部分を検証していきます。

「『Dr.スランプ』が始まる前の少年ジャンプって、劇画が多かった時代なんです。

そもそもこの人、漫画と劇画の違いが分かっていませんね。『ゴルゴ13』のようなハードで書き込みの多い絵柄が劇画……ではありません。劇画の第一人者であった、さいとう・たかを先生も「本来、絵は劇画の条件には含まれていない、デフォルメされた絵、少年・少女向けの絵でも構わないもの」と語っておられるように、映画的な表現技法(カメラワークなど)を用いた青年向け作品が、劇画です。線が多い荒れた感じの絵を劇画だと思い込む、初歩的な誤解があるようです。

昔は子供が読むモノだった漫画が、50年代後半の1957年には劇画という言葉が生まれ、大人の鑑賞に堪えるモノに幅を広げます。辰巳ヨシヒロ先生らの劇画工房が、1959年発足です。劇画は一世を風靡し、漫画の第一人者であった手塚治虫先生も、かなりの危機感を持ったことを後年、吐露されています。手塚治虫先生を含め、漫画の側も劇画の手法を取り入れます。このような漫画の読者層の拡大に合わせて、梶原一騎先生が1966年に『巨人の星』を、1968年に『あしたのジョー』を週刊少年マガジンで連載します。

■大人が漫画を読む60年代■

これあの大ヒットで、大学生や一般層も漫画を読むようになります。社会学者ならば当時、大学生が漫画を読むと文化人から批判されたことぐらい、基礎知識じゃないんですか? 三島由紀夫は『あしたのジョー』を愛読し、一刻も早く読みたくて、講談社に直接買いに来たこともあったとか。寺山修司がライバルの力石徹の死を惜しみ、架空の人物の葬式を行うほど、社会現象になったわけです。70年安保の学生は、朝日ジャーナルと週刊マガジンを読むと言われ、1970年にはよど号ハイジャック事件の犯人が、自分たちを『あしたのジョー』に例える声明を出すほどには、一般化しています。

71年に『巨人の星』が、73年に『あしたのジョー』の連載が終了し、入れ替わるように70年代には萩尾望都先生ら、24年組の快進撃が始まります。1972年に『ベルサイユのばら』『ポーの一族』が始まり、1983年には『がきデカ』より早く『つる姫じゃ〜っ!』が始まって、ギャグでも漫画界をリード。1975年の『キャンディ♡キャンディ』は社会現象となり、史上初の単行本初版100万部を記録します。さらに陸奥A子・田渕由美子・太刀掛秀子先生ら、乙女チックラブコメ路線と呼ばれた新世代が70年代中盤には台頭し、少女漫画を読む男性が増えます。

少年誌の方では、少年キングが1963年に創刊され。少年ジャンプが1968年に創刊、69年に週刊化。同年には少年チャンピオンが創刊され、こちらも翌70年から週刊化。この週刊少年誌の創刊ラッシュと、漫画の側も劇画の表現手法(絵柄ではない)を取り入れ、70年代には劇画は下火になります。古市氏は、こういった基本的なことさえ、抑えていないようで。週刊少年ジャンプの漫画賞が、手塚賞である意味を、理解しているのでしょうか?

■少女漫画の70年代■

週刊少年チャンピオンでは1972年に吾妻ひでお先生の『ふたりと5人』が開始され、1974年には『がきデカ』が連載開始されます。少女漫画の表現を取り入れた、吾妻先生の可愛い絵柄の女性キャラクターたちは、当時としては画期的でした。がきデカも主人公はともかく、女性キャラは当時の基準としてはかなり可愛い外見でグラマラス、そのギャグの鮮烈さと合わせて、赤塚不二雄先生の系統の丸っこい 2頭身キャラクターでギャグ漫画という概念を、打破します。

そして1977年には、鳥山先生の先駆的存在である、鴨川 つばめ先生による『マカロニほうれん荘』が連載スタートします。手塚先生の系統の丸っこい等身でもなく、上手いけど書き込みすぎずフラットでスッキリした、でもポップな作風は、一世を風靡します。ペケッターで、鴨川先生は当時は評価されなかったという、知ったかぶりのポストを見かけましたが。いやいや、山上先生が嫉妬のあまり自分自身の絵柄さえ変え、小学館の『ドラえもん』の中で人気作家の一人として名前が上がるほど。

江口寿史先生も影響を受け、『すすめ!!パイレーツ』で早くも鴨川先生風の、太い輪郭線と均一な色塗りのアメリカン・ポップな扉絵を、描いていました。前述のように、女誌を読む男性が増え、同時に男性誌を読む女性も増え、1978年には女性漫画家である高橋留美子先生が、週刊少年サンデーで『うる星やつら』の大ヒットを飛ばします。この年は、男性漫画家である魔夜峰央先生が花とゆめ誌上で『パタリロ!』の連載を始めた年でもあります。以下の論考も参考にしてください。

■アンチ手塚の劇画?■

このような流れがあって、鳥山先生自身は1979年にデビューされていますが、1980年の『Dr.スランプ』の連載開始です。古市氏は、漫画の歴史に詳しくないようで、50年代後半から60年代の劇画の隆盛と、70年代の劇画の凋落と少女漫画と週刊少年漫画の台頭の歴史を、中途半端な知識でごちゃ混ぜにしている疑いは強いです。だから、こんなトンチンカンなことを言うわけです。

手塚治虫先生のちょっとアンチというか、そういう劇画が多かった時代に、

手塚治虫先生の名前を冠した漫画賞が看板で、手塚治虫 先生自身が長らく審査委員長を務め、弟子である小室孝太郎先生や小谷憲一先生、寺沢武一先生らが執筆していたジャンプで、手塚治虫アンチの劇画って、具体的に誰のことでしょうかね? もっと言えば『Dr.スランプ』が始まった1980年には、手塚先生がその才能を絶賛した荒木飛呂彦先生が、手塚賞からデビューしています。今でこそ等身が伸びて描き込まれたハードな絵柄ですが、デビュー当時は濃いめですがポップな絵柄でした。

鳥山さんがすごいポップですごい可愛らしくて、ああいう絵の作品を始めたんですね。漫画のイメージを変わったっていうか

ジャンプは本宮ひろ志先生の弟子筋が多く、荒い感じの絵柄の作家もいましたが。弟子の金井たつお先生の『いずみちゃんグラフィティー』は、美少女とパンチラで一世を風靡し、手塚先生の弟子の小谷先生『テニスボーイ』と、アメコミ的な表現を本格的に取り入れた寺沢先生『コブラ』も、流麗なタッチで人気。もっと言えば当時、車田正美先生は女性漫画家と勘違いされ、ジャンプ編集部も悪乗りで誤情報(お花畑に座る女性の写真を車田先生として紹介)を掲載し、読者も信じてしまう程度には、あの絵柄は〝女性的〟だったのです。

■80年代を用意した70年代■

現在の読者からすれば、車田先生は少年漫画の王道中の王道だと思っているので、信じられないでしょうけれども。小学生時代の自分の友人なども、女が描いてる漫画だから読まない、なんて言ってるやつもいました。ファンロードで『リングにかけろ』に、女性ファンが多かった理由です。これが呼び水になって、『キャプテン翼』が元祖腐女子たちのネタにされまくったわけで。そもそも車田正美先生が影響を受けた本宮ひろ志先生、女性キャラは奥さんの森田先生が書かれていましたから。だから『硬派銀次郎』とか、女性ファンが多かったりします。

そして、ちばてつや先生がそもそも少女漫画家で、途中から少年誌に移ったということすら、知らない人が多いですね。少女誌の線の美しい画風を、ちば先生は少年誌に持ち込んだわけです。ちば先生の漫画はこんなに綺麗で読みやすいのに、なぜうちの漫画は汚くて読みづらいのだろう……と悩んでいたのが、若き日の鳥嶋和彦編集者でした。70年安保の失敗とセクトの暴走で、70年代は 熱血やスポコンから、娯楽を楽しむシラケ世代(ポスト団塊の世代)の時代へ。

「それまで漫画はオタクが読むようなものみたいなイメージがあったんですけど、今我々が漫画のこと、誰も恥ずかしくない、誰もが日本のステキなカルチャーだと思えるのは、鳥山先生の功績ってめちゃくちゃ大きいと思うんですね」

はい、ダウト。漫画はオタクが読むモノではなく、大衆が読むモノだったのは、上記で説明した通りです。子供の娯楽だった漫画が、大人も読む大衆娯楽に成長した 50年代から60年代。その大衆化の中で、いろんな作家やジャンルが生まれ、読者にマニア化するモノが生まれます。大学に落研が生まれたような、大衆文化(ローカルチャー)が、一部のマニアに深堀りされるのに似た流れですね。さらにそのマニアの中の、コミュニケーション能力に劣る一部の人間への蔑称として、オタクという分類が生まれました。ここら辺の歴史に興味がある方は、以下のnoteを参照してください。

■マニアとオタクの80年代■

さて、こういう流れの中で、中森明夫氏が、ロリコン誌『漫画ブリッコ』の1983年6月号から8月号まで連載したコラム「『おたく』の研究」が、雑誌 文化でオタクという言葉が登場した初出とされています。でも、寺沢武一先生の『コブラ』でもアニメ『超時空要塞マクロス』でも、主人公が多人称としてすでに、使っていましたからね。中森氏は、オタクという言葉に否定的なニュアンスを添加して、批判します。

コミックマーケットは1975年にはスタートしており、言葉としてはともかく、オタク的な概念はもう生まれていましたし。80年代には既に、和製サブカルとオタクの、対立が始まっていましたからね。学生運動に挫折して、予備校業界とエロ出版業界に潜り込んだ左翼が、反体制のポーズとしてエロを出していたわけで。零落したカウンターカルチャーが、和製サブカルの本質です。ある意味で、社会の救済を掲げる大乗仏教的。

一方、自分自身の好きなものにとことんこだわり、それを深く追求する人間が出現します。ある種の上座部仏教的な人たち。これを嫌った大乗仏教的な和製サブカルが、コミュニケーション能力に劣る一部と混ぜこぜにして、社会性の薄い人間としてのオタクという蔑称を、使うようになったわけです。SNSで何でもかんでもネトウヨ(ネット右翼)呼ばわりする、アレと同じです。ところが、1989年に宮崎勤死刑囚による幼女連続殺人事件が発生し、一部の人間を意味していたオタクという言葉は、漫画やアニメやSFなどを愛好するマニア全体を意味する言葉に、スライドします。ここら辺の歴史に興味がある方は、以下のnoteを参照してください。

ちなみに、少女誌の男性漫画家であった弓月光先生と、立原あゆみ先生、柴田昌弘先生らが、男性誌系に活躍の場をシフトしたのが、奇しくも『Dr.スランプ』末期から『ドラゴンボール』初期の1983年~1985年頃であったことも、もう少女誌とか少年誌とかの垣根がなくなった、ひとつの証左でしょうかね。ちなみに『Dr.スランプ』は当時、集英社の少女漫画でも掲載しようという動きがあったそうです。鳥嶋氏が、何かのインタビューで語っていた記憶があります。それぐらいあの絵柄は、少女誌的でもありました。

■社会学者の漫画弾圧■

1985年生まれの古市氏は、宮崎事件の頃は幼稚園生ですし、中学生のうちに 90年代が終わっています。たぶん『ドラゴンボール』も、アニメの方の影響が強そうですね。そういう意味では、2005年に秋元康氏がAKB48を立ち上げた以降の、オタクの意味を拡散し、すり替え、本来の意味や イメージがすっかり変質したオタク文化のイメージを前提に、鳥山明先生や漫画文化を語っていますね。

彼が幼稚園生の頃にはすでに、出版業界に間接的に関わり出していた自分からすれば、呆れるような内容のオンパレードで。正確な記述がほぼないですね。そりゃあ、自分なんかよりもっと詳しい方々や、70年代や80年代にはすでにデビューして作家として活動されていた方々から見れば、ツッコミのひとつやふたつは、入れたくなるでしょう。これで社会学者を名乗れるのですから、大したものですね。自分も明日から、在野の社会学者を名乗ろうかな? こちらの、狸穴猫さんの検証と論考が、大変な力作なので最後に紹介しておきます。

是非とも上記リンク先から、note全文を読んでいただきたいです。学校教育という切り口で、漫画という表現が社会学者や教育学者の手によって、いかに不当に貶められてきたかを、膨大な資料を引用して 丁寧に検証しています。少なくとも、事実誤認だらけの古市氏のコメントよりも、10倍以上価値がある内容だと思います。まぁ、0と100を比較しても、●倍という比較はできないんですけどね。0はいくらかけても0ですから。いったい、どちらが 社会学者なんだか……。

■まとめとして■

鳥山先生を過剰に持ち上げるのも、自分の政治的意見のために利用するのも、自分は違うと思います。なので鳥山先生の、2013年の朝日新聞でのインタビュー を、最後に転載しておきます。

「僕の漫画の役目は娯楽に徹することだと思っています。ひと時楽しい時間を過ごしてもらえれば、何も残らなくてもいいとさえ思っていますので、意識してメッセージを伝えようなどと思って描いたことはありません。よく勘違いされるのですが、健全な内容も苦手なのです。一見、健全そうに見えるかもしれませんが、実は毒が入っていたりします」

メッセージを込めないというのも、ひとつのメッセージですし。政治から距離を置くというのも、逆説的な政治性です。作品褒めてしかいないと揶揄された淀川長治さんが、無視することで、ちゃんと評論していたように。あえて書くならば鳥山明先生の、デビュー作である『ワンダーアイランド』が、故郷日本に帰ろうと奮闘する元特攻隊員・古巣二飛曹と、島に暮らす奇妙な住人たちの騒動を描いた作品であり。また『ドラゴンボール』の原型となった『騎竜少年』の第2話では、死んだ主人の命令を守り続けて橋を守るロボットのエピソードが描かれます。

両方とも、1974年に帰国された小野田寛郎少尉が、モチーフなのは、疑い得ないでしょう。鳥山先生がデビューする 5年前のことです。万有引力の法則を発見した物理学者のアイザック・ニュートンが、近代化学の扉を開けた人物であると同時に、錬金術の研究もしていた最後の錬金術師であったように。80年代以降のポップカルチャーに多大な影響を与えた鳥山明先生が、戦後10年の1955年生のポスト団塊の世代であり、戦前戦後の連続性の中にあった、と。

鳥山明という天才については今後、いろんな切り口で語られるでしょう。その思想や信仰についても、落ち着いたらイロイロと証言や研究も出てくるでしょ。ポジティブな評価もネガティブな評価も、たくさん出てくるのは確実です。しかし少なくとも、社会学者に雑に歴史をねじ曲げて欲しくはないですね。こんなのを起用して、内容チェックもできないマスコミも、酷いんですけども。リアルタイムで『Dr.スランプ』に衝撃を受けた人間として、書いておきました。あくまでも自分の個人的な見方ですので、勘違いや異論反論もあるでしょうけれど。叩き台になれば幸いです。


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