見出し画像

でんきくらげ

 ちょうど十二時の鐘が鳴って、僕は本を破る手を止めた。

 口の中に放り込んだものを咀嚼し、飲み込むとタイミングを見計らったかのように「ねぇねぇ」と声が聞こえた。

 声は上からだった。

 顔を向けると、街頭の上に一人の女の子が立っていた。ジーパンに白のティーシャツというラフな格好だ。しっかりと僕と目が合っている。中庭で時々見かける子だった。

 彼女は街灯に取り付けられているハシゴからするすると降りてきて、僕の座っているベンチの横に立った。長い麦色の髪が揺れて太陽を鋭く反射している。塩素系の匂いが鼻をかすめた気がした。

 「それ、お昼ご飯?」

 彼女は僕の持っている本を指さした。ゆっくりと食べていたはずなのに、あと残り百十九ページしかない。有害図書に指定されていて、破棄されるために外からここにやって来た、ただの紙のゴミだ。

 「そうだよ」

 僕が言うと、彼女は表情を明るくした。

 「私もピッキーイーターなの」

 「あぁ、そうなんだ。でもここじゃさほど珍しくない」

 そう言って、僕は本を小さくちぎり口に運んだ。

 「私ね西棟で暮らしてるんだけど、あそこってピッキーイーターが少ないのよ。だから、あなたと友達になりたいというか。そこまで親しくしてもらわなくてもいいから。その、たまにおしゃべりしてくれたら嬉しいかなって思って、声をかけてみたんだけど」

 彼女は口をすぼめながら言った。

 西棟はここからバスで三十分ほどの距離だ。主に海洋生物の保護や、飼育などをしている場所だった気がする。僕の生活する南棟の第二B地区とは分野がだいぶ違うはずだ。だからといって、彼女の提案を断る理由にはならない。

 「いいよ」

 好印象に見せるためにできるだけ最上級の笑顔を使って答えると、彼女は僕の笑顔が消し炭になるほどのまばゆい笑顔を見せた。

 「嬉しい。私マヒルよろしくね」

 「僕はミツヤ」

 握手をしようと手を出してみたけれど、マヒルは困ったように笑うだけだった。僕なりの挨拶のつもりだったけれど、少し馴れ馴れしかったのかもしれない。行き場を失った手は大人しく本を破り、小さな紙きれを僕の口へと運んだ。

 「よくこの地区には来るの?たまに見かけるけど」

 僕が言うとマヒルは「うん」と返事をした。

 「街灯の点検をして回ってるの。このあいだ仕事で失敗しちゃって、それから雑用ばっかり任される」

 マヒルは肩を大げさにすくめて、少しだけ笑った。

 「街灯点検できるなんてすごいじゃないか。技術職だ。うらやましいよ」

 「そんなことないわ。ここで異常あるものを見つけたことなんてないもの。すべて正常にプログラムされてる。だから誰にでもできることなのよ。あってもなくても同じ。あなたは何をしてる人なの?」

 「僕はそこで司書をしてる」

 向かいにある図書館に目を向けると、彼女も僕と同じ方を見た。図書館は黒レンガでできている。コンクリートの建物ばかりのここでは珍しい仕様だ。厳重な雰囲気を出すためなのかもしれない。実際あの建物は図書館としての役割とは他に、重要な資料などを保管する役割を担っている。夜になると芝生に埋め込まれたライトで照らし出されて、その威圧感が何倍にも感じられるから僕は少し苦手だ。

 「あそこで働いてるなんてすごい。私中に入ったことすらないわ」

 彼女は大きい目をさらに大きく見開いて、関心したように呟いた。

 「本は嫌い?」

 僕の質問にマヒルは顔を横に振った。

 「入館証がないの。何度も申請してるんだけど通らないのよ。腹が立っちゃう」

 マヒルは怒ったようにそう言ってから、口を手で押さえた。

 「あっ、気を悪くしたらごめんなさい。あなたは悪くないのに」

 「気にしてないよ。実際ピッキーイーターに対して審査が厳しすぎるのは問題になってるしね。僕が働けてるのも、図書館には差別がないと世間に見せたいだけの表向きのもんなんだ。だから僕が優秀なわけじゃない。運が良かっただけ。立場も弱いしね。でも君の審査が通るように願ってるよ」

 「ありがとう。司書も大変なのね。ねぇ、となり座ってもいい?」

 マヒルが聞くので、僕は「どうぞ」とベンチに置いていた数冊の本を自分の方へと引き寄せた。空いたスペースに彼女が腰を駆ける。

 「本を食べるってどんな気分?」

 マヒルは僕の手元にある本に視線を落としながら言った。日に透かされている睫毛が、彼女の瞳の動きと共に微かに揺れる。

 「うーん。気分だなんて考えたことなかったな。習慣みたいなものだよ。摂取しないと餓死しちゃうし。呼吸をするのに気分なんて面倒なこと考えないのと一緒だよ」

 「でも、ほら、本は沢山の種類があるでしょ?紙質とか、インクとか、内容だってそれぞれ違うし。だから好き嫌いとかあるのかと思って」

 「あぁ、好き嫌いならあるよ。正確に言うと僕は文字のピッキーイーターなんだ。だから本の他にも手紙なんかも食べれる」

 「手紙?紙とペンでやり取りする、普通の手紙?」

 「そう、その普通の手紙。初めて手紙を食べた時は衝撃だったよ。あれはずっと残る。舌に刻み込まれる。そして心の具合が悪くなるんだ。意味もなく涙が止まらなくなったり。逆にずっと笑ってしまったり。幸福な気分になったり、死にたくなったりもする。あれは一種の精神異常だと僕は思うね」

 「へぇ、面白いのね」

 「面白くなんかないさ、大変だよ。でも、僕の他にも、食べ物の記憶が入り込んできて困ってる人は何人か居るよ」

 「例えば?」

 彼女は首を傾げた。見上げてくる瞳が、チリチリと輝いている。嵐の中に一瞬だけ走り抜ける白い瞬きのような、その攻撃的で美しいまばゆさに、思わず目をそらしてしまった。

 僕は開きかけた唇を閉じた。

 それから考えるふりをするためにわざと腕を組んで、空を見上げた。ほんとうはすぐに答えることができた。でも、もったいぶりたいと思ってしまった。

 彼女は未だに僕のことを覗き込んでいる。

 僕の唇がいつ開かれるのか、静かに見つめている。

 風が頬を撫でた。彼女の柔らかそうな金髪が、パチパチ音を立てて揺れた。

 出会ったばかりだというのに、僕はマヒルという少女が、僕にとって特別な存在になることを予感していた。いや、確信と言ってもいいのかもしれない。それはとても奇妙な感覚だった。そう考えに至る自分が恐ろしいとさえ思えた。けれど、彼女の綺麗な瞳が、いま僕だけを捕らえている。この事実があれば他に何一つ証明は居らないと素直に思えた。この瞬間が幸せで仕方がない。彼女に触れたい。そう意識すると、本に挟んでいた指先でさえ心臓のように熱を持った。

 また風が吹いた。僕たちの間をすり抜けてゆく。それを確認してから僕は口を開いた。

 「そうだね、例えば。僕のルームメイトに木を食べる人が居る」

 彼女は傾けていた顔を、さらに傾けた。

 「き?」

 「そう、それも生命のみなぎっているものじゃなきゃダメなんだ。腹が減ってどうしようもない時は、ここの中庭の木を齧ってるよ。根本が食べやすいらしい。水っぽくて、味が濃いって。僕には理解できないけど」

 言い終わらないうちにマヒルは振り返った。多分ベンチの後ろにある木の根元を見ているのだろう。歯型が見えなかったのか、何も言わずに僕の方に顔を向けた。その動作が可愛らしかった。

 「おいしいのかしらね」

 「さぁ。でも木の種類によって味が違うらしい。あとは生えてる環境とか。水質とか。それに長寿な木ほど膨大な記憶を持っているから、それに参ることがあるって言ってたな」

 「木の感情が入ってくるってこと?」

 「多分そんな感じ。一番つらかったのは、むかし戦地だった場所の木を食べた時だって。言い表せない不快感が体中を駆け巡って、しばらく吐き気が止まらなかったってさ」

 「ヒトのいう食あたりみたいなものかしら?」

 彼女が真面目な顔をして、顎をさすりながら言った。

 僕は思わず吹き出してしまった。

 「それは良い例えかもしれない」

 「センスあるかしら?」

 「すごくね」

 笑いながら言うと、彼女も満足そうに笑った。ピンク色の唇がゆるくカーブを描いた。

 「私そのルームメイトに会ってみたいわ」

 マヒルはそう言うと身を乗り出した。日の光が白い肌を滑り落ち、彼女の周りだけが光っているように見えた。

 「会わせてあげたいけど、彼はいま地球の裏側に居るよ。地形とか地質とかの研究員なんだ。今頃名前も知らないような木でも食べてるんじゃないかな。半年後には帰ってくる予定だよ」

 「それは残念。でも半年も外に出れるなんてうらやましいわ。私ここから出たことないのよ」

 「え?そうなの?」

 「特殊な体質だから、外出禁止なのよ」

 さっきまで好奇心で輝いていたマヒルの表情がみるみる曇ってゆくのが分かった。

 「その体質って、もしかして電気関係とか?」

 僕はなぜか声を潜めてマヒルに尋ねた。それを聞いたとたん、彼女は頭を抱えてうなだれてしまった。

 「隠してたつもりだったのに、やっぱりばれてしまうのね。いつから気づいてた?」

 「さっき初めて君を近くで見た時かな。ときどき髪の毛が青白く光っていたし、それに君の瞳の中には雷が住んでる」

 そう言うと彼女は恐る恐る顔を上げて僕を見た。黄金色の瞳がチカチカと光っている。彼女が瞬きをすると、溢れた光があたりに淡く散った。

 「漏れ出ちゃうの。成長すれば治ると思ったんだけど、ダメね。十八歳を超えてもこのままなの。一生この中で暮らすしかないのよ」

 沈み込むマヒルに、なんて声をかけようかと言葉を選んでいると、彼女は少し寂しそうな顔を見せた。

 「私に触れると感電しちゃうからくれぐれも触らないようにね。死にはしないけど、だいぶ痛いと思うから」

 そう言うとマヒルはベンチから立ち上がった。

 「私仕事中だからもう行くね。話してくれてありがとう」

 パチパチと音のなる髪の毛を翻して、マヒルは歩いて行こうとした。爪の先から光がこぼれて、芝生の上で閃光のように弾けた。

 僕の中にある本能や細胞たちが、この光は危険だと警告している。鳥肌が止まらない、背中に冷や汗が伝ってゆくのが分かった。

 でも、けれど。

 寂しそうな顔をする彼女を見てしまったら、そんなの全て些細なことなんだと思えた。

 去りゆくマヒルの青白い手を、僕はしっかりと掴んだ。

 「え、ちょっと!」

 マヒルは信じられないものを見る目で僕を見た。

 「離して!危ないから!」

 手を振りほどこうとするマヒルとは逆に、僕は握る手を強めた。

 「離さない。危なくなんかないよ」

 落ち着かせるようにゆっくりと言った。本当は手が焼けるように痛かった。細胞がおののき震えているのが分かる。奥歯を嚙んでいないと倒れてしまいそうだった。

 でも手を離してはいけない、そんな気がした。

 マヒルは一瞬悲しそうな顔をした。泣き出すかなと思ったけれど、泣かなかった。代わりに声を出して笑った。心底楽しそうに。

 「あなたバカね。こんなことする人に初めて会った」

 「友達になるって約束したからね。握手くらいさせてよ」

 そう言って笑って見せると、マヒルはやっぱり少しだけ泣きそうな顔をした。

 「ありがとう」

 消えかかった電球のような声だった。瞳からぽろぽろと光が溢れている。涙だと気づくのに少し時間がかかった。肩が小さく震えていた。抱きしめたい衝動にかられたけれど、今の僕にはそんな余裕はなかった。

 「ごめん、もう限界だ」

 そう言って、彼女の手を離した。ほんの数秒の、友情としての握手。それでも僕は、彼女のひんやりとした手の感触を一生忘れない。いや、忘れられないと、そう思った。

 手のひらが痺れるように痛い。見ると赤く腫れていた。

 そんな僕の様子を見て、彼女は白い顔をさらに真っ白にして、何度も何度も謝ってきた。悪いのは完全に僕だというのに。

 彼女は周りから特性を責められて生きてきたのかもしれないと思った。

 それから僕は会社を早退した。手のことは誰にも話さなかった。ヒトの上司に、お昼に食べた有害図書で食あたりを起こしてしまったと嘘をついたら、すんなりと納得してくれた。

 そしてバスに乗ってマヒルの家を目指した。

 僕の手を見たマヒルが「手当するわ。家によく効く薬があるの。病院の薬よりも効くのよ」と言ったからだ。

 バスを降り、地図の場所を訪ねた。

 驚くことに彼女の家は海洋生物の飼育施設の中にあった。裏口でマヒルとおちあい、案内されるまま地下へと続く階段を下りた。建物の中は塩素系の匂いが充満していて、薄暗く、時々青白く光る彼女だけが唯一の光源だった。

 「ここだよ」

 マヒルはそう言うと、階段の途中に現れた不自然な扉を開けて中に入っていった。あとに続き、足を踏み入れ、僕は思わず息を飲んだ。

 無数のクラゲが漂っていたのだ。見上げるほどの大きな水槽の中に、青い光を当てられたクラゲたちが舞っている。

 「驚いた?」

 僕の反応を見てマヒルはいたずらっ子のように笑った。

 「驚いたよ。すごい。こんなに沢山のクラゲを見るのは初めてだ。本でも見たことがない。綺麗だ」

 僕が感嘆の声を漏らしながら言うと、マヒルは満足そうな顔をした。

 「綺麗って言ってくれて嬉しいわ。それよりも、はい、これ」

 彼女は奥の部屋から取ってきた紙袋を僕に渡した。

 「痛み止めも炎症止めも塗り薬になってるの。特に順番はないんだけど、痛み止めから先に塗った方が効き目があるらしいわ」

 「ありがとう、助かるよ」

 「感謝なんてしないでよ。私の体質のせいでそうなったんだもの。ごめんなさい」

 「君は何も悪くない。僕が好きでやったんだ。謝らないで」

 微笑んで言うと、彼女も薄く笑った。青い照明の部屋で、彼女だけが時々白く、恐ろしいほどに美しく発光している。

 「このクラゲたち君が飼ってるの?」

 言いながら水槽を見上げた。数え切れないクラゲに僕はただ圧倒されていた。

 「飼ってるというか、食べるために育ててるの」

 「クラゲのピッキーイーターなの?」

 僕の質問に彼女は静かに首を振ったのが分かった。髪の毛がパチパチと音を立てた。

 「生き物が発する電気のピッキーイーターなの。だからナマズでも、エイでも、ウナギでも良かったんだけど」

 彼女はそこで一度言葉を区切った。

 水の循環する音だけがあたりに響いている。

 僕はクラゲたちから、彼女へと視線を移した。雷を宿した瞳が僕を見つめている。

 「電気クラゲが、一番美しいでしょ?」

 薄い唇から発せられたその言葉に、僕は背筋が震えた。戦慄が走った。

 雷が落ちて、体中を電流が駆け巡るようだった。

 マヒルという女性に僕はもうすっかり夢中になってしまっていた。

 「そうだね、一番美しいよ」

 触れられない代わりに、僕らはしばらくのあいだ見つめ合っていた。

 電気クラゲが幻想的に舞っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?