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淡い紫の呪い

 雪原にほんの一滴、ブドウのジュースをこぼした時のようなはかない淡い紫。その色をミサキはこっそり持っている。きっと誰にも見せてない、でも私は知っている。だって私がつけたんだもの、あの華奢な左の手首に。

 「先輩って、かっこいいよね」ミサキがそう言うのと、私がカメラのシャッターを切ったのはほぼ同時だった。

 「え?先輩??」

 わざと聞き返す。先輩と呼ばれる人物にはあらかた予想がついていた。

 「だから、かっこいいよ。メグの兄さん。」

 ほらね、やっぱり。予想通りの答えに私は少し顔をゆがませる。ミサキが私の兄に興味を示しているのは前から薄々気づいてはいたけれど、それは、例えるなら憧れとか尊敬とか、そういった類のものだと思っていた。でも、ファインダー越しの幸せそうな笑顔を見て、それが間違った解釈だったのだとすぐに気づいた。私は一番近くに居たというのに、ミサキの心の揺れ動きを見落としていたのだ。そんなミサキを前に私はシャッターを切らなかった。いや、切れなかった。

 カメラのレンズにカバーをかけて「帰ろ」と言うと、ミサキが「うん」と返事をした。

 いつまでもこのまま2人だけで、私たちは生きていくのだと本気で思っていた。けれどうっかりしていた。世界は、私たち2人だけではできていないのだ。誰も介入できないと、誰にも邪魔されないと思っていた私たちの関係がおだやかに崩れていく予感がする。その止め方を私は知らない。だから、ただ眺めている。私たちの美しい関係が崩壊するのを。

 家に帰ると、私の憂鬱の原因である兄は外出していて、リビングのソファーに兄の学ランが無造作に脱ぎ捨てられているのが見えた。私はそれをかき集めて、自室の姿見鏡の前で袖を通す。膨らんでいる胸、合わない肩幅、ずっしりと重い学ラン、悲しいくらいに不格好でみじめだった。そんな事知っている。短く切りそろえられた髪の毛、骨ばった手、男特有の角度のあるオデコ、広い肩幅、兄が持っている物を私は何一つ持っていない。そんな事考えなくたってわかっていた。でもそれが悲しい。私は兄に絶対になれない。

 眠る前にミサキの事を考えた。ミサキは美しい高校生で、私はその姿を写真に収めるのが何よりの幸せだった。短い襟足や、すべすべしている手、薄い唇。茶色がかっている瞳。あぁ、そうだミサキは特にふくらはぎの曲線が美しい。他の人とは違うミサキの柔らかそうなふくらはぎ、お豆腐みたいにつるんとしている。歯を立てて噛んでしまいたいとすら思う。それほどまでに愛おしい。

 ミサキが行動を起こしたのはその次の日だった。少しだけ、ほんの少しだけ目を離した隙に休み時間の教室からミサキは姿を消した。探しに行こうかと廊下を飛び出しかけたけれど、踏みとどまって1人で席に着いた。どうせ上手くいくはずがない恋だもの、ミサキはきっと戻って来る。何度も自分の心に言い聞かせた。自分だってかなわない恋を秘めているくせに。

 あれ以来ミサキは私の前で兄の話をしなくなった。けれど、ミサキが兄に会いに行っているのは家で兄から聞いていた。可愛い後輩ができて嬉しそうにしている兄を見ていると苛立ってくる。ミサキが隠してる本心も、私が抱いているこの思いも知らないくせに、と。

 そうやって、静かに燃える苛立ちを胸に秘めながら数日が過ぎたある日、私はミサキの左手首に淡い紫の痣をつけてしまった。あれは、私たちが学校の中庭でお弁当を食べていた時。遠くの方に兄を見つけたミサキが、私を置いて駆けていこうとしたのだ。私はそれがたまらなく嫌で、嫌で、嫌で仕方がなかった。だから、ミサキのたおやかな左手首を掴んでそれを阻止した。物凄い力だったのだと思う。ミサキが私の手を振りきれずに痛みに顔を歪め「痛いよメグ。はなして」と切れ長の目で私を見つめてきた。

「行くの?」

 私が言うと

「行くよ」

 と悲しいくらいに即答された。けれど声はやわらかく、いつもと変わらないように感じられた。怒ってもいいはずなのに、まっすぐな目で私をとらえている。

 「言わないの?好きって」

 私の問に、ミサキは一瞬瞳を揺らがせた。そのしぐさに私は悲しくなる。知らないとでも思っていたの?知ってるよ、君が私の兄を好きなことくらい。バレバレだもの。教室の窓から校庭を眺めている時だって、廊下を歩いている時だって、帰り道でさえも、君は兄を探している。そのくらいわかるよ。だって私もあなたのことが好きなんだもの。

「言わないよ。言えるわけない。ただ話をしに行くだけだよ」

 諭すように言うミサキを前に私は泣きそうだった。そんなの、そんなの、駄目に決まってる。ここでちゃんと想いを伝えて、ミサキの恋を粉々に壊してもらわないと、永遠に美しい思い出となって君の心の中で輝いてしまう。そんなの駄目だよ。駄目なの。だって私が耐えられない。

 何も言わない私を置いてミサキは駆けだしていった。私は走ってゆくその姿を茫然と眺めていたが、ミサキがこちらを振り向くことは1度もなかった。

 私はすごすごと1人で校舎に戻り、2階の窓から中庭を眺める。お揃いの学ランを着て楽しそうに話をする男子高校生。ねぇ、ミサキ、それは叶わない恋なんだよ。

 彼が好きなのは私じゃない。

 彼が好きなのは私の兄。

 あれからミサキと楽しく話していても、一緒にご飯を食べていても、あの時私がつけた痣を目でとらえるたびに胸が痛くなる。そして、私の腕からするりと抜けて兄のもとへ行ってしまう彼が、何度も、何度も、脳内に再生される。雪原にほんの一滴、ブドウのジュースをこぼした時のようなはかない淡い紫。この色が私の心を苦しめる。

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