月のかき氷
つむっている僕のまぶたを、夜が優しくノックする。
そんな日は何度寝返りを打っても、星の瞬きにそっと耳を傾けても、意識は冴えたままだった。
時折こんなふうに眠れない夜が僕の元を訪れる。身を縮込ませながら両肩をさすり深く呼吸をすると、乾いた空気が喉に入り込んできた。もうタオルケットだけで眠るのは心もとない。
夏なんていつの間にか消滅してしまった。ひっきりなしに鳴いていた蝉の声も、触れ合えばべたつく皮膚の感触も、長かった小学校の夏休みも、僕を憂鬱にさせた夜の寝苦しさでさえ、過ぎてしまえばあの感覚を思い出すのは難しい。秋は嫌いだ。あっという間に過ぎてしまう。それになんだか寂しい気持ちになる。
ベットから抜け出し、リビングに顔を覗かせるとお母さんがまだ起きていた。ソファーに座り、本を読んでいる。
「あら。また眠れないの?私と一緒ね」
銀縁の薄いメガネをはずしながら、お母さんはニコリと微笑む。僕は小さくうなずいて、お母さんの肩にもたれかかるようにしてソファーに腰を掛けた。伸びてきた手が僕の髪をとかすように撫でる。お母さんの手は少しガサガサしているけれど、これほど落ち着く手のひらはこの世界でどこにもないと僕は思う。例え眠れない夜だとしても、それは絶対に変わらない。
「お母さんは、眠れない夜どうやって眠るの?」
「うーんそうだなぁ、こうやって本を読んだり・・・。あとは、ほら。私にはこれがあるから」
お母さんはテーブルにあるグラスを持ち上げて見せた。透明なグラスには血のように赤い液体が入っている。
「お酒?」
「そう。ホットサングリア」
お母さんがグラスを揺らすと、中に入っているサクランボやレモン、洋ナシが泳ぐように移動した。湯気が空気中を揺らめき、アルコールの匂いが鼻をかすめ、僕は思わず顔を歪めた。
「おいしいの?」
お母さんはグラスを口に傾けて、一呼吸置いてから答えた。
「燃える惑星の味がするわ」
「なにそれ。わからないよ」
「ふふっ私も。ただ言って見たかっただけよ。だからほら、そんな顔しないで」
きっと難しい顔をしていたのだと思う。お母さんが僕を優しく抱きしめた。ふんわりと温かな体温が伝わってくる。
「でもその難しい顔。お父さんにそっくりで私好きよ」
お母さんはそう言うけれど、僕はお父さんの難しい顔が怖くてあまり好きではない。お父さんはいつも難しい顔をしていて怒っているように見える。大抵は考え事をしている時だとお母さんは言うけれど、やっぱりあまり好きではなかった。
僕はまだ子供で「燃える惑星の味」を知らない。だから眠れない夜が静かに訪れると、心の中がこんなにも落ち着かないのかもしれない。
「燃える惑星の味を知らないから、僕は眠れないの?」
お母さんは僕からゆっくりと身体を離した。
「そんなことないわ。ホットココアでも飲む?」
「いい。ホットココアは虫歯になるから夜は飲んじゃいけないってお父さんが言ってたから」
「またそんな堅いこと言って。あ、そうだわ「燃える惑星の味」に変わるとっておきがあるのよ」
そう言うとお母さんは立ち上がりキッチンへ行ってしまった。僕はリビングにかけられている時計の針が、カチカチ音を立てて進んでいくのが気になってなんだか焦りのようなものを感じていた。短い針が12時を過ぎると明日になってしまうらしい。もうすぐ今日が明日になる。こんな時間まで起きていたのは初めてだった。
「はい。お待たせ」
声の方を見ると、お盆の上にペンギンが乗っていた。このペンギンは背中の部分に氷を入れて、頭にあるレバーを回すとかき氷を作ってくれる。去年の夏にお父さんが買ってくれたのだけれど、そういえば今年の夏は使わなかった。
「かき氷?夏はもう終わりだよ。冷たいものなんて食べたらもっと目が覚めちゃうよ」
眉をひそめる僕に、お母さんはいたずらっ子のように笑った。
「いいの。ほらよく見てて」
母さんはペンギンをテーブルの上へ移動させて、空洞になっているお腹の部分にお皿を置いた。レバーをガリガリと回してゆく。
その刹那、僕はそっと息をのんだ。
出てきたのは、細かく削られた氷ではなく、とても穏やかな光だった。
さらさらと落ちてくる。その吸い込まれるような輝きに、僕は目を離せないでいた。ガラスお皿に光が降り積もってゆく。僕の生まれた月の星座が薄く彫られているガラスのお皿は、淡い光を受け本物の星のように瞬いていた。
「さぁどうぞ」
お母さんはペンギンのお腹からそれを取り出すと、スプーンと一緒に僕の前に差し出した。光の山はまだうすぼんやりと発光している。
「なにこれ!光ってるよ!」
「そうよ、だってお月様だもの。ほら早く食べないと溶けちゃう!」
急かされながら、柔らかい光の山にスプーンを差し込む。掬い取るとスプーンを通して細く削られた月の柔らかい感触が伝わってきた。恐る恐る口へ運ぶと、冷たさを感じる前にふわりと溶けてしまった。そして後を追うように、夢のような甘さが僕の口の中へと広がってゆく。
もう一口。また一口。溶けてしまうのを名残惜しく思うと、スプーンは止まらなかった。まるで魔法のような甘さと口溶けに僕はもう虜だった。
光のように掴みどころのない。けれど、確かに存在する不思議なかき氷。味の深みを知ろうとすると、あっけなく溶けてしまう。口に広がる繊細な甘味は後を引かず、儚さだけを残して僕の鼻を抜けていった。
「お味はどう?」
気がづくとガラスのお皿は空っぽだった。ガラスの表面だけが薄く光っている。僕は最後の一口を舌の上で溶かし、うっとりしながら答えた。
「薄氷に映る月の味がする」
「なにそれ。薄氷なんてそんな難しい言葉よく知ってるわね」
お母さんが噴き出すように笑った。
「僕もわかんない。ただ言ってみたかっただけだよ」
さっきのお母さんの口調を真似しながら言うと、僕もおかしくなって笑ってしまった。なんだかお腹の中がぽかぽかと温かい。そのあと僕とお母さんは、一緒のベットで眠りについた。
日々の生活は、砂でできた城が徐々に風化していくように、僕の記憶からどんどん削られてゆく。でも、今夜の出来事は一生忘れない。たとえ僕の元にまた眠れない夜が訪れたとしても。「薄氷に映る月の味」に思いを馳せれば、きっとどんな夜だって眠りにつけると思うから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?