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月食珈琲

 「珈琲が苦手な人でも楽しめる喫茶店があるよ」と、僕にこっそり教えてくれたのは、同じバードサークルに入っているマリコだった。その時「良ければ僕と一緒に行かない?」と実に自然な感じで彼女をデートに誘えばよかったな、なんて後悔しながら、教えてもらった喫茶店に僕は1人で足を運んだ。

 喫茶店は「とこやみ喫茶」と言って、木製の黒い看板が目印だった。窓が夜空をかたどったステンドグラスになっていて、外からは室内の様子がいまいちわからず入るのに少し勇気が必要だった。中に入ると、その藍色のステンドグラスが光を通して、薄暗い店内の床を照らしている。僕は無意識に深い海の底を連想していた。アメジスト色やサファイヤ色をした宝石のようなテーブルランプが所々に置いてあり優しく発光している。その幻想的な雰囲気に思わず息を飲んでいると「どうぞ」と店主と思わしき人にカウンター席に座るように促され、イスに腰を掛けた。「何かオススメはありますか?」僕が聞くと店主はカップを拭く手を止めて「珈琲でしたら夜空ブレンドですかね。あとは・・・満月のスライスを乗せたチーズケーキが当店のオススメです」とニコリとして答えた。耳にしっとりと溶け込む、心地の良い声だった。チーズケーキもいいなぁ。と思いつつ、珈琲が苦手だということを話すと「でしたら、とっておきのがございますよ。お客様もきっと珈琲がお好きになるはずです」とさっきよりも笑顔を色濃くして言うので、僕はそれを1杯注文した。棚に飾られてある高価そうなカップやソーサー、静かに可動しているサイフォンに圧倒されながら僕は口を開く。

 「ところで夜空ブレンドとは何ですか?」

 僕の問に、店主は珈琲の準備をしながら

 「当店の珈琲は夜空をほんの少し切り取って使用しているのです。例えば、北国の夜空。南の夜空。東京や沖縄、仙台の夜空などもございますね」

 「ずいぶんと具体的な地名もあるんだな・・・」

 「はい。できるだけ多くの夜空を取り扱っておりますので」

 そんな話をしていると、店主が僕の前にカップを置いた。出されたのは、ごく普通の真っ黒い液体で、ブラックコーヒーに思えた。店主が言うに、これは「月食珈琲」というらしい。首をかしげる僕に

 「月食がございますでしょ。そうです、月が完全に消えてしまう日のことでございます。あの、闇に身を紛れ込ませているお月様を少しだけ焙煎して作りました。ままっ、騙されたと思って一口お飲みになってください」

 と店主が言う。

 この人の良さそうな店主が、僕を騙すわけがない。そう思い、カップを持ち上げると、深みのある独特な芳香が鼻に入り込んできた。珈琲の重厚な風味を含みながらも、花びらの中に包み込まれているような感覚に包まれ、うっとりとする。珈琲を口に含むと、味の奥深くにほんのりと甘さを感じ取ることができた。でも少し酸味がキツく、僕は顔を歪ませてしまった。

 すると店主が「月食珈琲の本当の楽しみ方はここからでございますよ。星屑をお入れになって下さい」と、ガラスの小瓶を手渡してきた。中に入っているのは、米粒ほどの大きさしかない色とりどりのごく普通の金平糖のようなものに見えた。僕がそれをひとつまみし、月食珈琲の中へ浮かばせると、命を得た火花のように輝きだし、一瞬にして、カップの中はプラネタリウムの星空のように煌めきはじめた。その賑やかな光景に、目も心も奪われていると、先ほどとは比べ物にならない位の甘い香りが私を包み込んでいった。吸い寄せられるように月食珈琲に口をつけると、それはもう、夢のような味だった。豊かでコクのある香りと、苦すぎず、甘すぎない、この完璧な飲み物に僕は完全に魅了され、気が付くと手のカップがすっかり空っぽになっていた。「もう一杯・・・」と言う僕に

 「1日にお月様を食べ過ぎては行けませんよ。」

 と店主は微笑み、僕は「うむ」となぜかその時はすんなりと納得し、会計を済ませて喫茶店を後にした。熱に浮かされた時に似ている気持ちを心の中で遊ばせながら、僕はマリコのことを思い出していた。春の木漏れ日のように笑うマリコ。今度は彼女を誘って訪れよう、そう強く心に誓った。「とこやみ喫茶」を教えてくれた彼女なのだから、きっと来てくれるに違いない。彼女と話したいことがたくさんあるんだ。

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