3年前のお礼を告げに

大学受験のとき、親と姉が私の代理としてかの有名な湯島天神にお参りにいってくれた。そして、私の合格を祈って加持祈祷をし、お札とカレンダー、お守りやペンを買ってきてくれた。

無事私は大学に合格し、二つあった第一志望のうちのひとつに入学することになった(もう一つは学力が足りず普通に落ちた)。大学の一年生が終わる頃から、親に「お礼しに行ってきなさい」と言われていたのだが、私は日々を生きるのに一生懸命すぎて(正直言うと私はそこまで神を信じてはいないのと面倒だなという気持ちが強かった)行くことを選択しなかった。いつか行かなきゃなあ、と思いつつも、ほかに楽しいことがたくさんあるのでそんなことは脳内の海底に沈んでしまっていたのである。

もうそろそろ3年になる今日、大学の友達が就活成功のためお参りしたいと声をかけてくれたので、重すぎる腰を上げてやっと湯島天神に行くこととなる。といっても、湯島天神にお参りしてくれたのは母と姉なので、私は大学3年(もうまもなく4年である)になってはじめて足を運ぶことになった。

はじめての湯島天神は、天気は曇りだったものの梅が咲いていて柔らかい雰囲気があった。コロナの影響か人は思っていたよりも少なかったものの、梅をカメラに収めに来ている人がそこそこいて賑わっていた。人集りのさきにはいちごをほおばるおさるさんがいて、ほっこりしつつ友達の「猿でさえ仕事があるのに私は…」との嘆きに笑ってしまった。境内を歩いていると重なり合った絵馬と、合格、の文字に3年前を思い出した。風邪をもらってはいけないから、あまり外に出ることはなかった受験期だったけれど絵馬に書いた記憶はある。どこの神社だったかは忘れてしまったけど。世の受験生の合格と輝かしい未来を願いながら、お賽銭を入れて、お参りをした。お札とお守りをおかえしして、またお賽銭をいれて感謝の気持ちを心の中で伝える。3年間。遅れてごめんなさい、と思いながら、この3年間を振り返ると色々あったけれど納得のいく日々だったので神様、さすが見る目あるなあなんてことをおもっていた。 

3年前、たしか私は悔しさと嫉妬と苛立ちのなかにいた。直前の最終模試では私の点数の方が高かったのに、実際の結果は友達が受かって私は落ちた。彼女は私がそこを第一志望にしていることも落ちたことも知っていたのに、「受かったあそこ、ネットでみたら評判悪くて迷ってんだよね(笑)」などとほざくので私は言葉から滲むマウントとそのデリカシーのなさからその子と話すことをやめてしまった。元は仲が良かったし、卒業後も遊ぼうと話が出ていたけれど絶対行くかと思って全く連絡を取ることはなかった。結局その子はそこに進学して、楽しそうに過ごす様子をインスタにあげていた。今はいいねができるくらいにはなったので、まあ、私もすこしは成長したのかもしれない。

大学に入って最初のうちは慣れないことだらけで、通学時間も2時間はかかるししんどかったけれど今となってはいい思い出だし、高校とは違った、いろんな価値観を持つ友と出会えて世界も広がったと確信できるのでこの日々には満足している。きっと、私はどこにいっても満足できたのかもしれない。というか、できる。そういう性格をしている。どこを選ぼうとも、それを正解にするしかない。満足できるようにしていくしかない。今になって、当時の後悔を思い出す。だけど、こう今満足できているのは、私の選択だけじゃなくて家族のおかげでもあるし、かみさまのおかげでもあるのかもしれない。まあ、それも信じたものが正解になるだけで、そこに真実なんてないけど。就活をするなかで、「結局それを決めきること、信じきることでしか始まらない」と言われたことがある。たしかになあ、と思う。それができたら一番だよなあと思いつつも、できないから迷うし、迷うってことはなにかそこに障害やら不安ががあるし、そこを乗り越えないと納得して信じることもできない、とも思うのだ。わたしは少々就活に疲れてしまったので、信じきってがんばることをすこしやめて迷うこともありだなあという心境になっている。流された先が案外いいかもしれないし、迷うことで見える視点もきっとある。信じることで始まるものもあれば、迷いながら進むこともある。どちらにせよ、結局求めているのは自分がありたいように幸せにいることなのだ。いろんな過程も否定したくない。わたしが納得して、手を伸ばしてつかむなら、それでいい。

3年という時を旅して漂着したのは、そんなところでありました。

お礼とご報告と兼ねて、礼。
これからはきちんとお礼を伝えに来れる大人になります。はい。

お札を返納したあと、おみくじを引いたらわりとよい結果だったので就活がうまくいったら次はちゃんとお参りに来よう、と思った。御徒町で買ったぱんだ焼きを大学の友達とたべたら、ああなんか幸せだなあとしみじみして、友達ありがとう、やっぱりここの神様やるなあ、と梅を眺めてそんなことをぼんやりとおもった。


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