心地よさを改めて考えたら「楽しんで生きる」になった
今年は初めから「心地よさを追求する」ということを目標にして試行錯誤してきて、数か月で大きな変化があった。
「自分の心地よさはこうだ」と定めて、それに向かってやってきたから今はいい感じのはずなんだけど。
ここ最近、ずれてきているような気がする。
なので改めて、心地よさについて考えてみよう。
心地よいと感じること
・日向ぼっこ
・緑の中を散策すること
・シンクに洗い物が溜まっておらず、きれいに片付いていること
・掃除機をかけた後
・スポーツをした後の充実した疲労感
・静かな空間
・誰かに急かされないこと
・朝の家事を一通り片づけた後のなんでもない時間
・ノートに何か書いている時の、ペンが紙の上を走る感触
・新しいゲームを起動するときのワクワク感
・おいしいごはんを食べている時
こんな感じかな。総じてリーズナブルで、いつでもすぐにできそうな感じがとてもいい。私にとって心地よさとはコストがかかるものではないようだ。
リストを書いている時に目印にしたのは、ホワホワ感またはウキウキ感。
なんだかいいなぁって思う時が、私にとって「心地よい」と思う瞬間なんだろうな。冬にコンビニの前で食べる肉まんみたいな、ほっとした感じ。
それから、心地よさはもちろん快感情なのだけど、快でも不快でもないフラットな気持ちの時にも現れてくるので、「0」以降のプラス感情が心地よさなのかもしれないな。
正直、今の生活は心地よい。けれど、何か物足りないと感じている。
幸せだけど「本当にやりたいことはまだできていないよね」なんて自分がささやいてくる。
私の心地よさは、ギブアンドテイクなのだろうか。
自分に何かしてあげて、その最中やその後の状態を喜んでいる。
他の人は出て来ない。
誰かに何かをしたい、と思っていない。
自分が満たされるようなことをして、過ごしている。
それでいいのかな。
いや、まあもちろん自分が幸せになることが第一だしまずそれが大事なんだけど、ずっとそれだけでいいのかな。
「誰かのために生きるべきだ」なんて高尚なことが言いたいわけではない。でも、いつまでも自分だけのために生きるというのもなんだかなーと思う。
はっきりと分からないが、なんとなく空虚なのは確か。
「私の心地よさは、ギブアンドテイクなのだろうか。」と書いたけど、自分の心地よさって自分にしか分からない。だから見返りを求めるとして、誰かに何かをしてあげて見返りに何かを得る方法はいい手段とは言えない。
そもそも他人からの見返りなんて不安定だ。あらかじめ公言するならまだしも、勝手に期待しておいて勝手にがっかりするなんてすごくあほらしい話(昔はこればっかりしてたからめちゃくちゃ不安定だったのは内緒)。
なら、自分が人に何かをしてあげること自体が心地よさになったらいい。「私がこれをやってあげたいからやるんだ」と思えばいい。
でも私、そもそもそれを求めているのかな?
人に何かをしてあげることを、求めているのかな?
どうなんだろう。
私は私、人は人。
犯罪にならない範囲でお互い好き勝手生きたらいいんじゃない?と思っている。何かしてあげたいと思ったとして人の人生は変えられないし、人は思い通りにならないし操作してはいけない。
私がやりたいことをやって、それを各々好き勝手に楽しんでもらえたらそれで充分な気がする。
…私は、楽しんでほしいのか。
私が楽しむことで、見た人もちょっとだけ楽しんでほしい。ちょっとだけでいい。めちゃくちゃ楽しんでもらおうとすると苦しくなるから。
私が心地よく、楽しく生きることが、勝手に誰かのためになっている世界線にいたい。
改めて、「楽しんで生きる」を今日から目標にする。
そのために何ができるかな。
次回に続く→
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