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意味が宿るとき

ホルンという金管楽器を学生の時にずっと吹いていた。プロになりたいと真剣に練習していた時期もあった。結局音楽家への道は選ばなかったし選べなかったけれど、大学を卒業するまではずっとホルンを吹いていた。中学生のときに始めたからその期間は10年ほどになる。

でも大学を卒業するときにすっぱりとやめた。不思議とあまり未練のようなものはなかった。ただ少しだけ寂しくて、ぷかぷかと浮かぶ寄る辺のない木片になってしまったようなそんな不安が残った。

自分の楽器を手放したときに、それは同じ楽団の友人に二束三文で売ってしまったのだけれど、マウスピースだけは手元に残した。金管楽器のマウスピースというのは三角錐のような形をした小さな金属の塊で、それを口に直接あてて音を出す。マウスピースからの振動が楽器全体に伝わって、金管楽器はあの軽やかで華やかな音を奏でる。

とても大事なものではあるけれど、楽器自体がなければそれはただの三角錐でしかない。だからどうして自分がそれを手元に残したのかはわからない。ただ、どうしても手放す気にはなれなかった。あるいはそれは自分の中で10年間という時間を表す小さなシンボルのようなつもりだったのかもしれない。

おそらくこのマウスピースは他人から見れば、古く磨耗したヘンテコな形の金属の塊にすぎないだろう。本当に無意味で価値をもたない。でも同時に僕にとっては、入っている傷一つ一つに思い出が詰まった大切なものでもある。

自分にとって大切なものが、他者にとってはまるで意味を持たないこと。それはとても日常的で当たり前ではあるけれど、少しだけ寂しいような気もする。でも、ここまで読んでくれた人には僕にとってのその小さな三角錐がどういう意味を持つのか、少しだけ分かったんじゃないかと思う。(ただの自分の願望でないこと祈りつつ....)

なぜなら僕はここで僕のマウスピースにまつわる物語を共有したからだ。

意味のないものに意味が宿るとき、そこには必ず物語が存在する。幼いころに死んでしまった母親がくれたハンカチ、初めて優勝したときに貰ったサッカーボール、大切な人がくれたイヤリング、こう聞くと何かしらの意味が生じていることを僕らは感じる。でもただ、ハンカチ、サッカーボール、イヤリングでは特に僕らにとって大きな意味を持たない。もしかしたら価値はあるかもしれないけれど。

社会学者の岸政彦さんが「断片的なものの社会学」という本で、意味のないものが意味を持つ瞬間について語っていて、読んでいるときにふとマウスピースのことを思い出した。それが僕にとっては意味が宿っているものだったのだろう。

そして同時に僕らにとってなんでもなかった日常に今、大きな意味が宿っているのではないかと考えずにはいられなかった。

それは例えば休みの日にフラフラと電車に乗って出かけて、なんとなく良い感じのお店で特になんていうことのない時間を過ごして、それから夕ご飯にお弁当とビールを買って帰る、あのたいした意味のない日のことである。

それは例えば、特に用があるわけでもなく実家に帰って、リビングで父親とビールを飲みながらたわいもない話をして、それから母親の本当にどうでも良い話を、少し面白がりながら聞く土曜日の夜のことでもある。

そしてそれは例えば、友人たちと飲み屋で集まって、ビールときゅうりの梅肉和えなんかをつまみながら、どこにもいかない話をあーだこーだと続けて、最後はヘロヘロになりながらみんなで笑って駅まで歩くあの道のことである。

そんな日常が今少なくとも僕にとっては本当に意味のあるものになっている。多分、多くの人にとってもそれは同じなんじゃないかと思う。あまり喜べないけれど、僕らは今ほとんど全員が同じ物語を共有して、なんでもない日常に意味を見出している。

何かを喪失するという物語はとても強烈に僕らに響く。それをドラマチックと呼ぶのだろう。そういう意味では僕らは今とてもドラマチックな現実に置かれているのかもしれない。

岸政彦さんの言葉で痛烈に残った一節がある。

だが、かけがえのないものは、それが知られないこと、失われることによって現れる。だとすれば、もっともかけがえのないものとは、「私たち」にとってすら、そもそもはじめから与えられていないものであり、失われることも断ち切られることもなく、知られることも、思い浮かべられることも、いかなる感情を呼び起こされることもないような何かである。
断片的なものの社会学 位置: 266(kindleから引用) 岸政彦 朝日出版社 2016年

失われた瞬間にもっともかけがえのないことからこぼれてしまう。そんな岸さんの指摘にハッとした。「そうか僕らの日常はもっともかけがえのないものだったのだ」と、そう思い至って、その喪失感の大きさに胸が痛くなった。

誰のせいでもなく、しかしとても暴力的に僕らの前から消えてしまった、もっともかけがえのない日常は多分もう戻ってこないのだろう。そして僕らはまた前とは少し違う"日常"を作っていくことになるのだろう。今はちょうどその過渡期だ。

いつかはまた日常に意味がなくなる日がくるのだと思う。それがどういうあり方をしているのかはまだわからないけれど、その"もっともかけがえのない日常"が僕らにとって少しでも良いものであるように願わずにはいられない。

少なくとも僕はこれから来る未来が少しでも良いものになるように、ささやかではあるけれど、何かしらの努力をしたいと思う。できれば意味のないことに笑っていられるそんな余裕のある未来が来ると良いなぁ。

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