見出し画像

#05 1990年 前夜 (小山潤)

小山潤
1983年生まれ、埼玉県深谷市出身。主婦。大学院進学を期に関西へ。在学中、身体障害者の主催する劇団の裏方に携わる。介護職、非常勤講師などの職を経て、結婚・出産を機に退職。今は奈良の山の中で育児と介護中。ほぼ週末note更新。
https://note.com/kiwiiiii



    我が家は、ちょっとした山の中にあって、子どもの足で通える範囲に学校というものがない。なので、この春上の子が小学生になっても、あいかわらず朝は上の子と下の子を車に押し込んで慌ただしく送っていく生活が続いている。

 帰りももちろん迎えが必要で、曜日によって下校時間が微妙に違うという、小学校の複雑怪奇な時間割を日々チェックしながら、家事と介護との段取りをつけて毎日バタバタと迎えに行っている。

 先日、いつものように下校時刻に昇降口の前で突っ立っていると、上の子が年長の時に同じ組だった人懐っこいSちゃんが駆け寄ってきた。手に新品のプールバッグをぶらさげていたので、「プールどうだった?」と、ごく軽い世間話のつもりで声をかけた。そこで返ってきた答えが、


「じごくのシャワー、つめたかったー」


 じごくのシャワー、だと?


 一瞬、その懐かしい響きに頭がくらくらした。いや、頭がくらくらしたのは、まだ暦の上では本格的な夏が始まる前だとういのに、連日余裕で35℃を超えている気温のせいかもしれないが。 とにかく、令和を生きる小学一年生の口から、「地獄のシャワー」などという単語が飛び出してくるとは思わず、たじろいでしまった。みなさん、言ってましたか、「地獄のシャワー」。


 私が、今から30年前ほど前に、関東の、埼玉の、北部の、深谷というところで小学生だったころ、プールに入る前に消毒をする一環で、上からも左右からもけっこうな水圧で冷たい水が噴射される中を通り抜けるあれのことを「地獄のシャワー」と呼んでいた。ついでに言えば、腰まで浸かる消毒槽は地獄風呂と呼んでいたと記憶している。そんな言い回しは、ごく限られたローカルなものだと思っていたし、そもそも、今回Sちゃんの口からその単語がこぼれ落ちるまでは、思い出しもしなかった。

 その、「地獄のシャワー」という言葉を聞いて、まず私の頭に浮かんだのは、「なんて昭和っぽい言い回しなんだ!」ということだった。でも、ここで私はウソをついている。いや、瞬時にそういう感想を持ったことは本当のことなのだけど、そもそも、私は「昭和っぽい」などと言えるほどに、昭和という時代を知らないのだ。


 私が産まれたのが1983年、昭和が終わるのが1989年、つまり私が6歳の時のことで、私にとっての昭和は産まれてからたった6年のことだ。しかもそのうちの最初の数年は、オシッコが出ただのウンチが出ただの、お腹が空いただの暑いの寒いの、その他特に理由はなくとも、ただ泣いては自分の不快をアピールすることに忙しく、実質、断片的にせよ記憶が残っているのは終わりの3年の間ぐらいのもので、それだって、石畳の上にじょうろの水でスライムの絵を描いたのに幼馴染のナオちゃんが水をぶっかけて消えちゃったのが悲しかったな、とか、兄と家の中でかくれんぼをしているときにぶどう味の飴玉が喉に詰まって死ぬかと思ったとか、ごく卑近な世界の中で起きた出来事の記憶があるだけで、とても昭和を語ることのできる経験は持ち合わせていない。だいたい、さっきの「地獄のシャワー」の話なんて、小学校にあがってからの話なのだから、思いっきり平成の話だ。


 昭和をよく知りもしないくせに、何か記憶の中の懐かしいものや郷愁を誘うものを紐解こうとするとき、そこに「昭和」という言葉をまぶしてしまいがちなのは、今まで生きてきた中で後から付け足された昭和のイメージの影響が大きいと思う。でもそれ以上に、ここには、ごく個人的な事情が絡んでいる。

 私は、1990年に引っ越しをしている。前述の深谷に引っ越しをしたのは小学校一年生から二年生になる春休みのことで、それまでは同じ埼玉の川越に住んでいた。距離にしたら50kmほどしか離れていない二地点間の移動なのだが、6歳の私には世界が一変する大移動だった。

 川越での私は、幼馴染のナオちゃんとともに、近所の子どもたちの中で一番のチビで、3つ上の兄や、それより年上のお兄さんやお姉さんたちの後ろをくっついてまわっていた。兄の漕ぐ自転車の後ろに乗って出かけた雑木林で、木にかけてある巣箱を誰かが棒で突いて落としたら(良い子は真似しないでね)、ぱかーんと割れたその中から無数の虫がぞわわわーと出てきて、その場にいた子どもたち全員が一目散に逃げだしたのだけど、チビの私は出遅れて半分泣きべそをかきながら必死でみんなの後を追ったことを覚えている。

 年長の子どもたちが不在のときには、私が住んでいた団地と道を一本挟んだ向かい側にあるナオちゃんちへ入り浸っていた。ナオちゃんちは、二階建ての同じような家が隣り合って並び合う中の3番目か4番目にあり、そこにたどり着くには敷地の入り口の犬小屋の前を通らなければならない。赤い屋根の犬小屋の主は、いつも目を血走らせた中型の犬で、人を見れば誰彼構わず吠えるのだった。毎日のように通って来る攻撃性のない幼児のことぐらい記憶してくれても良さそうなものだが、毎回牙をむき出しにして吠えられるのが恐怖で、音を立てないようにしてそっと犬小屋の前をやり過ごし、ナオちゃんちに飛び込むのだった。

 川越での私は、目に見えない膜に守られていたようなものだった。透明な球体状のビニールをすっぽり被って、ぼんぼん跳ねたり回転しながらプレイする「バブルサッカー」というものがあるが、あんな感じだ。膜は、世界との接触の衝撃を和らげてはくれたけど、そのぶん、世界の輪郭はぼやけて見えた。

 引っ越しによってその膜がぱちんと割れた。

 引っ越したのは、新しく建てられた15階建てのマンションの一室だった。あとあと知ったのだが、その、明らかに周りの景色から浮いているマンションは、それまで地元民が慣れ親しんでいた大きな公園をつぶして作られたらしい。当時はそんな事情は知らなかったが、そのマンションに入居してきたのは縁もゆかりもない住民ばかりで、一軒隣でもお互い顔も知らなかった。


 

 それが、私にとっての1990年代のスタートだ。1990年代というのは、地域共同体が解体していった、なんて言葉とともに語られることがあるが、記憶を辿っていると、その答え合わせをしているみたいに、子どもの私の生活から、呼び鈴を鳴らさずに敷居をまたぐ幼馴染の家や、年長のこどもをリーダーにした地域ぐるみの人間関係はある日突然消え去った。

 でも、ある時代を指して、そこで何かが失われていったと解釈するのは、今いる地点から過去をふりかえって無いものを数えようとする未来から過去への眼差しだ。当の本人は、失ったもののことよりも、自分が一番後ろをついていくチビではなくなり、いきなり最前線に踊り出たことに、どちらかと言えば胸を高鳴らせていたと思う。ないならないで、ありものでなんとかするしかない。

 この後、少女は大人になり、「大皿料理は苦手」だけど、「人づきあいを希求する」という相反するメンタリティを引っ提げて、転々と引っ越しを重ねながらの旅路の過程で、「素っ裸で赤の他人の介護をする」局面に出くわしたりするのだが、それはまた、別の話。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?