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3-1.応答①汐月陽子 - 権力と物語、そこから逸脱する現実の身体

「現代魔女」を名乗る汐月陽子さん。その活動についてはとても簡潔に説明できないので、後半のインタビューでご本人からお話しいただいています。汐月さんとは、アートNPO「ココルーム」(※)で出会いました。私がスタッフ、汐月さんが助成金を出す企業の担当者という関係でしたが、それから公とも私ともつかない交流が続いています。私と関心が重なる部分も多くありながら、来歴や現在の活動のしかたはかなり異なる汐月さんをゲストに招いて、当日はプレゼンに関係する本や事柄を話してもらい、事後にメールインタビューで自身のことを語ってもらいました。

(※)ココルーム(NPO法人こえとことばとこころの部屋):誰もが立場にかかわらず共に過ごし、表現し、学び合う場を模索し、実践し続けている団体。代表は詩人の上田假奈代。日本最大の「寄せ場」として知られてきた大阪・釜ヶ崎に拠点を起き、現在はゲストハウスも運営。近年は「釜ヶ崎芸術大学」などの活動で知られている。
https://cocoroom.org/cocoroom/jp/


キリスト教/資本主義/身体

 私からは「女性」の視点に力点を置いて、茂木さんの話に関係することを話していきます。茂木さんから事前に話を聞いたとき、思った以上に身体的なことに話がいくんだなと思って、じゃあまずここに接続しようと、この本を用意しました。マックス・ヴェーバーという経済社会学者の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。社会学界隈では『プロ倫』と呼ばれていますね。
 順を追って説明します。この本は、このあと紹介する『キャリバンと魔女』、それから茂木さんが紹介していた『魔女・産婆・看護婦』につながる本です。「魔女」をタイトルに含むこの二冊は、フェミニズムの立場から、魔女と呼ばれた人たちのことを論じています。魔女論は女性学でもあるのですが、魔女というのは実は必ずしも女性とは限らなくて、男性でも魔女と呼ばれた人はたくさんいるんですね。要するに、いわゆるアウトカースト、マイノリティだった人たちと言っていいかと思います。その人たちが社会においてどんな風に扱われたかを、フェミニズムの視点から語った名著がこの二冊です。そして、おそらくこの二冊の理論的根拠と言えるのが『プロ倫』なんです。
 さっきSさん(参加者)が、「物語を与える宗教」と「物語の外に出す宗教」があるという話をしていました。この本はまさに「物語を与える宗教」としてのキリスト教が、いかに産業革命以降の社会を基礎づけたかということを論じています。非贈与経済、つまり交換経済で、富の蓄積をして、学校や病院をつくって、といった資本主義社会を、いかにキリスト教的観念が下支えしたかということを明らかにしたんですね。

 西洋のいわゆる「魔女狩り」をしたのはキリスト教の過激な教会派の人たちだったりするんですが、権威としての教会や病院、アカデミアといったものは互いに強く結びついていました。魔女とされた産婆のような人たちは、その権威の側から迫害されていたアウトカーストの人たちだった。そもそも、女性自体が、キリスト教の教義のなかで外周化された存在だったりします。キリスト教的観念と、資本主義社会の関係について書いたのが『プロ倫』でしたが、そこで迫害された身体性というのは何なのか、ということを書いたのが『キャリバンと魔女』なんです。
 象徴的だと思ったところを読み上げます。第三章「偉大なるキャリバン」から。

「資本主義によって発展した最初の機械とは、蒸気機関でも時計でもなく、人間の身体だったのだ。」

 産業革命によって、人間の身体が一種の機械として扱われるようになったことを一言で表現しています。ちなみにこの「機械」としての「身体」がするのが、経済的生産労働を意味する「生産」なのですが、これと対比する形で使われる「再生産」という言葉があります。女性の、子どもを産む、つまり「再生産」をする身体というのが、いかに「生産」の現場から疎外されてきたかということを、端的に語っているのがこの本です。この本は女性ということにフォーカスしてはいるんですが、ここで言う「身体」には、茂木さんの話に出てきた老人とか子ども、それに介助が必要な人の身体も含まれていると思います。要するに逸脱する身体みたいなもの、統制されない身体みたいなものがすべて含まれている。そういう身体について詳しく論じている本です。
 私は京都にいた2年間、リラクゼーションサロンに勤めてセラピストの仕事をしていました。その後も個人で仕事を受けて、それを食い扶持のひとつにしているのですけれども、『キャリバンと魔女』は、そういう身体性とかボディワークとかに興味のある人が読んだら、女性でなくても、おもしろいと思います。

現代の男と女

 もうひとつ女性の視点から。現代ということにギュッとフォーカスしたものでおもしろいと思ったのが次の本です。書いているのは水無田気流さんという、社会学者であり詩人でもあるという、かなりめずらしい立ち位置の方です。『居場所のない男、時間のない女』という、なんだかいかにも現代的な、煽る感じのタイトルなんですけど、日経新聞出版社から出てるからしょうがないか(笑)。水無田さんはきちっとデータを解析しつつ、現代社会の問題をあぶり出していくタイプの社会学者なんですが、私はここを読んでうるっときました。

「貴兄が病気になった時、あるいは家族が要介護になったとき、『弱み』を見せられる相手はいるだろうか。仕事がうまくいってないときにでも、気軽に会える相手はいるだろうか。この国の男性は、『現役』で仕事をしていればすべて上手く回っていくとされるが、裏返せば、仕事を失うとすべてを失うリスクが極めて高い。」

 ここで書かれているようなことが、「居場所のない男」というこの本の主題につながってきます。いわゆる生産労働に、いかに男性が追いやられているか。そして女性が、子どもを産んで育てること、つまり「再生産」に、いかに追い込まれているか。このことを、現代の日本社会の状況に絞って、克明に描き出した本です。

 私ごとですが、二十代後半から付き合っている恋人がいて、まだ全然働き盛りの世代なんですが、ちょっと大きな病気を抱えています。ホテルの一室で半日ほど、その人を待っていなきゃいけなかったことがあって、そのときにたまたま買ってきて読んでいたのがこの本だったんです。そういうシチュエーションでこの一節に出会って、すごくぐっときたというか、ああそうだよなあと。その人も病気をしてから勤めていた会社を辞めて独立したりしたので、そういうことを思い返しながら読んだ本でもあります。

被差別民と通過儀礼

 次は女性ということからは少し離れて、『アジアの聖と賎』という本です。これはそれこそ民俗学とかに関心がある方にはかなりおすすめしたい。野間宏さんと沖浦和光さんの共著で、野間さんは小説家で評論家なんですけど、いわゆる被差別部落を扱った作品をたくさん著した方。沖浦さんは民俗学者・歴史学者です。この二人は一緒に仕事をしていることが多いですね。
 この本はインドとか朝鮮とか中国、それに日本も含んだアジアの国々を、実際にお2人がフィールドワークして、社会のなかにある階層にどの程度類似性があるのか、それぞれの国に固有の特徴はどういうところなのか、比較検討する形で書かれています。アウトカーストの人たちがどのように疎外されているのかが重層的にわかってくる本です。茂木さんの話に絡めておもしろいと思った一節を紹介します。イリイチの、学校を通らないと社会の構成員と見なされないという話とか、そのあとの障害者学級の話、そのあたりとすごく関係することです。

「〈無縁〉者が〈有縁〉の世界になんとかつながろうとすれば、自分たちで殺生戒を守り、まずわが身から穢れを取り除いてゆかねばならないーーそういう論理に承伏したということですね。」

 これは日本の被差別民の話をしています。彼らを宗教的に救済して、同じコミュニティの人だよといって彼らの人権を守ろうという運動がかつてあったんですが、その運動のちょっとダメだったところの話ですね。アウトカーストの人がコミュニティの中の人だよというふうになるためには、そこで仏教が信仰されているなら、動物を殺してはいけないという戒律を守らないといけない。日本の被差別民は歴史的に屠畜を担ってきたわけですが、そういうことを否定して戒律を守るからコミュニティに入れてください、という通過儀礼を、結果的にやらなければいけなくなったという話です。
 それがいいとか悪いとか一概には言えない種類の話ですが、より大きなコミュニティ、形が決まっている既存のコミュニティに入ろうとすると、そういう通過儀礼のようなもの、それまで持っていたアイデンティティを捨てて同化させる儀礼を経なきゃいけない構造になりがちだ、ということを考えさせられた本でした。

正常な身体/異常な身体

(参加者からの、「健常と障害とか、正常な身体と異常な身体とかいうことを何が決めているのか」という話を受けて)

正常さというものについては、さまざまな権威、権力が決定していると思うのですが、今回の話に絡めて、キリスト教の教義が規定している部分についてお話しします。ちょっと生々しい話ですが、いわゆる「まぐわい」の体位の「正常位」、あれを決めたのはキリスト教だという説があります。あれ以外は異常な交配であると、キリスト教原理主義的な人たちは思っている。キリスト教と性の問題ってかなりいろいろあって、中絶の禁止とかもそうなんですが、要するに身体を逸脱させるもののひとつとしてセックスを考えているところがあります。同性愛が異常であるとか、性において何が正常で何が異常かも、キリスト教はかなり恣意的かつタイトに決めている。だからこそフェミニズムやクィア・スタディーズと呼ばれる運動は、「そうじゃないだろ」ということをずっと言ってきた歴史があるんですけど。そのことが善か悪かということは別にして、覇権を握った思想が正常と異常をがっつり決めてしまうということはあるんだなと思います。


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