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#08 自分の声で、現実の話をしよう(茂木秀之)

   僕が生まれ育った熊谷市は、15万ほどの人口を抱える、埼玉県北部の中核都市である。夏の祇園祭と花火大会が周辺地域では有名だ。花火大会は実に40万人を動員する。

   高校三年のとき、一年間だけ塾に通った。お隣の群馬県で、難関大合格者が多いと言われる桐生市で成功して、この年に熊谷に進出してきた塾だ。しかし広報に失敗したらしく、僕が通った英語のクラスは生徒が三人しかいなかった。講師は一人だけで、彼が全クラスを担当していた。

   東大出身のその講師は、よく桐生のクラスの生徒を引き合いに出した。
「こんな問題、桐生だったら解説する必要もないんですけどね」
などと言って僕らを発奮させようとするのだった。その頃は負けん気の強かった僕は、まんまと乗っけられてけっこうがんばった。

   あるとき、講師が言った。
「今が一番勉強するときですから、TOEIC700点は取っといたほうがいいですよ。まあ一生熊谷で暮らすつもりならいいんですけどね。年に一度の花火大会だけを楽しみにして。」 

  僕は思った。
「死んでもヤダ」

   すみずみまで見慣れた風景の中で、わかりきったことだけを毎年毎年繰り返して終える一生。想像しただけで老衰したような気分になった。

   今ならわかる。このような問いの設定自体がトリックなのだ。
「今をときめくグローバルエリートになるか、冴えない地元暮らしで一生を送るか」
彼が問うたのはそういうことだ。当然のことながら、現実の人生はそんな二択でできてはいない。しかしそう信じ込ませたい人たちが、絶えず偽物の問いを供給している。世の中の論争のほとんどはこの類である。現実と関係ないことを言い争っている。

   だけどこの講師のことは好きだった。今でもいい先生だったなと思う。その頃僕は宮台真司を夢中で読んでいて、宮台さんのいる都立大学(現首都大学東京)を受けようかと思っていたのだが、それを話すと彼はこう言った。
「価値観なんて変わりますから、人で選ばないほうがいいですよ」
   今となっては、直感でこの人に学びたいと思ったのならそうすればいいとも思うが、「価値観なんて変わる」というのは重要な真理だ。たとえば一冊の本との出会いで、本当にあっさりと変わってしまう。

   あっさりと変わってしまうとき、その価値観は与えられたものであることが多い。どんなに常識的な価値観を疑っているつもりでも、なにかを自明な前提としてしまっていることに人はなかなか気づけない。その価値観をつくっている枠組みがあり、それはあまりにも巨大だから、それが世の中を覆っていることに気づけなかったりする。あの講師が言ったような偽物の問いにかかずらっているうちに、それは僕たちが知覚する世界の背景になってしまう。

   とりわけ堅固な枠組みの一つに学校がある。イヴァン・イリイチが指摘したように、いまや近代化したすべての社会が学校を採用し、それを前提にすべてが設計された「学校化」社会となっている。
   僕は中学1年と2年の2年間、その学校に行かなかった。苦痛だったのだ。たくさんの大人が「なぜ行かないのか」と聞いてきたが、自分でもなにが苦痛なのかよくわからなくて答えられなかった。一方で、学校に行く人に「なぜ行くのか」と聞く人はいなかった。
   最近は学校に行かなくてもいいという声もよく聞く。よりよい学校を構想し、実践する取り組みも多い。しかし、そもそも学校とはどのような存在か、という問いかけはほとんど聞くことがない。

   学校を出てから「勉強」してわかったのは、いま私たちが学校と呼ぶものは近代国民国家の要請によって作られたものであり、その目的は人を「国民化」すること、ということだ。加えて、イリイチは、学校はチャンスの配分を独占する機関であり、近代化したすべての社会に見られる通過儀礼であると指摘している。そういう性格は今でも変わっていないと思う(ひとつだけ言うなら、国民化ではなくグローバル市民化が目的になったと言えるかもしれない)。そういったことを踏まえずに「よりよい学校」を構想しても、本質の変わらないバリエーションを増やすだけで、むしろ学校に覆われた世界を強化していくことになるかもしれない。
   もちろんそこまで考えたうえでの実践もあると思う。本当のオルタナティブを志向する実践が増えれば素晴らしい。だけど「これがオルタナティブだ!」と力が入るとちょっと危ない。そうなるとその外側を想像しづらくさせてしまうような、新しい枠組みをつくってしまうこともありそうだ。従うにせよ反発するにせよ、枠組みを軸にして考えると現実から遠ざかってしまう。

   自分のことを振り返っても、どこからか供給される問いにかかずらってばかりだった。
「消費社会を否定するのか肯定するのか?」
「都会暮らしと田舎暮らしのどちらが真っ当か?」
   こんな問いに意味はない。重要なのは、その問いの背景にある枠組みの成り立ちを深く知ること。そのうえで、その中で自分がどう生きていきたいのかを知ることだ。自分が身を置いている枠組みの姿が見えたとき、初めて自分がどうしたいのかを知ることができる。そのときやっと、自分の声に出会う。

   自分の声で話す人は、目の前の現実に対して正確な言葉を放つことができる。母方の祖父がそうだった。学校に行かなくなったとき、この祖父だけはそれを否定しなかった。
「学校に行かなくたって大丈夫だ。ほら、今そこにちり紙交換のトラックが走ってるだろ?運転免許があればあの仕事ができる」
   今思い返しても涙が出そうになるのは、目の前の現実に対して、目の前の僕に対して放った言葉だからだろう。

   人と話しているつもりが枠組みや自分の中にある葛藤と対話している、ということはよくある。たとえば、まだ枠組みに捕えられている僕の頭の一部は、祖父の言葉にこう言い出す。
「そうはいっても中卒と大卒の平均年収を比べたら無視できないリスクが…」
   しかしそんなことは関係ないのだ。客観的に観測される事柄と、いまここに生きている一個の命がなにを為すかということとは、全く関係がない。祖父はそういうことを視界の片隅にも入れずに、ただ目の前の僕に対して言葉を放った。その言葉が僕を生きさせたのだった。
(最近知ったのだが、僕の不登校に取り乱していた母に対して祖父は「学校に行けと言うなよ。好きなことをさせろ」と言ったらしい。母の態度が軟化したのはそのことが大きかっただろう。それがなければ本当に僕は生きられなかったかもしれない。)

   大人になり、親になった今、僕は祖父のように言葉を使うことができているだろうか。枠組みに捕らわれた僕の言葉を聞いて、子どもたちは思っているかもしれない。
「こいつは何を空想してるんだ?現実の話をしてくれよ」

   枠組みを外す道のりは続く。現実に出会い、自分の声に出会うために。


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