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#03 土着する―資本主義との距離感を掴む(青木真兵)

青木真兵
1983年生まれ、埼玉県浦和市に育つ。「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター。古代地中海史(フェニキア・カルタゴ)研究者。博士(文学)。社会福祉士。2014年より実験的ネットラジオ「オムライスラヂオ」の配信をライフワークにしている。2016年より奈良県東吉野村在住。現在は障害者の就労支援を行いながら、大学等で講師を務めている。著書に『手づくりのアジール』(晶文社)、妻・青木海青子との共著『彼岸の図書館──ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)、『山學ノオト』シリーズ(エイチアンドエスカンパニー)などがある。


 2016年4月、奈良県東吉野村という山村に移り住んだと同時に、僕は障害者の就労支援事業所で働き始めた。実はルチャ・リブロという「山村での図書館活動」を言葉にする上で、「就労支援」というこの仕事が果たしてくれた役割はとても大きい。今までぼんやりと感じ考えてきたことが「福祉」という分野にまとまっていることを知ったし、「働く」ことについて向き合う機会を得ることができた。何より就労や仕事と「障害」は、僕らが言うところの「此岸」こと現代社会を知る上で大きな手がかりになる。
 現代社会では就職と仕事がほぼ同じ意味で使われる。両方とも目的は「お金を稼ぐこと」であり「雇われる」ことを前提としている。そもそもなぜお金を稼ぐことが必要なのか。一言でいうと「自立した一人前の大人」になるためである。近代以前の社会は物々交換や貸し借りなど「お金を介さない関係」が基礎にあった。しかし「お金を介さない関係」を形成するためには時間がかかるし、反対にその関係を変化させようとしても時間がかかる。
 このような時間がかかってめんどくさい地縁や血縁といった「つながり」の中で生きていくことを余儀なくされた時代があった。ここから脱する近代における万能の道具がお金だったのである。オーストリアに生まれた思想家イヴァン・イリイチは、地域社会から解き放たれることを「離床」と呼んだ。
 
「わが西欧社会がつい最近人間を経済的動物にしてしまったのだ」(1910年)ということを認識した人は、マルセル・モースであった。西欧化した人間とは、ホモ・エコノミクスのことである。社会の諸制度が、地域社会から<離床した>商品生産に向けてつくり直され、商品生産がこうした存在の基本的ニーズに見合うようになったときに、この社会は<西欧的>と呼ばれるようになる。イリイチ、玉野井芳郎訳『ジェンダー』岩波現代選書、22頁。
 
 イリイチの言うように、「社会の諸制度が、地域社会から<離床した>商品生産に向けてつくり直された」社会が近代社会である。商品はすべてお金によって交換可能であるから、現代社会のベースはお金によって基礎づけられていると言える。
 しかし地縁、血縁といった「つながり」から解き放たれ、お金によって手に入れた「個人の自立」は経済成長が可能だった社会では自由を謳歌することができた。しかし現代のように非正規雇用が増え不安定な社会においては、ただ「つながり」を喪失した個人が「漂流」する事態となっている。あたかも燃料切れで大海に放り出された小船のように、自分の力で社会を生きていくことが難しくなっている。
 僕たちが本屋ではなく図書館を開いた理由、それは現代社会の常識である「社会とのコミュニケーション方法がお金に限定されている状況」から距離を取るためだった。一言でいうと「資本主義との距離感」を掴みたいと思ったのだ。ほとんどの物がお金によって手に入り、自分の価値ですらお金によって表現される。あたかも全ての価値をお金によって測ることができる、そんな「錯覚」の中で僕たちは育った。もちろんその「錯覚」が与えてくれた楽しさもあったし「自由」もあった。ただあまりにも暮らしの中にお金が浸透しすぎていた。
 なぜ周りの大人はお金のことばかり言うのだろう。僕は前々から不思議に思っていた。むしろすぐ出てくるお金ってやつに反感さえ抱いていた。お金の話をするのがとても嫌だったのだけれど、結論から言うと、山村に越してルチャ・リブロを開館することでお金のことをもっと考えるようになった。物々交換や貸し借りといった地縁ベースの「つながり」を肌で感じることで、反対にお金という道具の有用な使い方に思いを巡らすことになったのだ。
 お金に振り回されず、お金の有無が思考のノイズにならないようにする。むしろ効果的なお金の使い道を考える。そのためには生活の中に「生産者的側面」を組み入れることが必要だ。物を作る「生産者的側面」が生活に入ることで、まずは「お金がないと何も出来ない」という無力感から一時でも脱することができる。「生産者的側面」を持ちつつ生活を営むことで、「お金に頼らない部分」を生活の中に取り入れることになるからだ。「お金に頼らない部分」は、現代社会の中で流れに身を任せるしかない人にとって、川中に浮かぶ小島のような存在になる。
 その「お金に頼らない部分」を確保するには、物を作るだけでなく物々交換や贈与の経験も活きてくる。ましてや物に限らず、お金を介さない情報の交換や情報の贈与だって良いはずだ。そう考えると、すでに人は無意識にそういう部分を持っていることが分かるのだが、僕たちは「お金がないと何も出来ない」と感じてしまっている現状がある。現状を打開するポイントは身体だ。「お金に頼らない部分」が自身の生活の中に存在することを、身体を通じて深く刻み込む。身体に深く刻み込むためには「とにかく続けること」。その経験を通じて自分の生活の中に「お金に頼る部分」と「お金に頼らない部分」があることに気づくこと。
 そのようにお金を相対化してみると、以前は地縁、血縁といった不自由ばかりが目についた「つながり」から、お金と共存できる「つながり」の存在可能性が見えてくる。「つながり」を「再帰的」に取り戻すのだ。「再帰的」とは、「つながり」の限界や効能を知った上で「もう一度」そこに回帰することを意味する。この過程を僕は「土着」と呼んでいる。お金を上手に使いながら物々交換や贈与を行い、時には不自由な「つながり」の中で生きていく。
 近代社会では地縁、血縁といった「つながり」をお金という道具によって断ち「離床」することで「自立した個人」となったし、そのような「個人」になることが推奨される。僕は就労支援をすることで、まずは「お金を稼ぎ、自立した個人になること」の重要性を知った。つまり「離床する」ことの必要性を知った。しかし自分の生活のベースをすべてお金に任せてしまうと、「お金がないと生活できない」ことになり途端に不自由になってしまう。「土着」し「つながりの中で生きる個人」になるためには、お金以外に「社会とコミュニケーションを取る道具」を一つでも多く持つことが重要だ。そのヒントとして京都で障害者の表現活動を行うNPO法人スィングを運営する木ノ戸昌幸氏の言葉を借りよう。
 
 スウィングでは仕事を「人や社会に対して働きかけること」と定義し、対価の有無に囚われない様々な活動を繰り広げ、それらを「OYSS!(O=おもしろいこと・Y=役に立つこと・S=したり・S=しなかったり)と総称している。(木ノ戸昌幸『まともがゆれる』24頁)
 
 木ノ戸氏は仕事を「人や社会に対して働きかけること」だと言う。OYSSの「したり・しなかったり」にもルチャ・リブロは大きな影響を受けているのだがそれはいったん置いておいて、木ノ戸氏の「仕事」に対する考えには僕も大いに賛同する。僕は「社会とコミュニケーションをとる術」を「仕事」と呼び、決してそこにお金が介在しなくとも良いと思っている。むしろお金以外のものを介して社会とのコミュニケーションの術を学んでおかなければ、この先の世界を生き延びることはできない。
 現代社会において「就職を目指す」ということはお金によって成り立つ世界の仲間入りをするだけでなく、お金という「物差し」が「世界を計測可能である」ことに承認することを意味する。この物差しが唯一絶対であると信じてしまうと、いつのまにかこの「万能物差し」でさまざまなものを比べ始め、他者と自分の比較によって「立ち位置」を測るようになる。
 僕は社会とのコミュニケーションが「お金」を通じてしかできないと思い込んでしまっている点が問題だと思っている。「コミュニケーションのとり方」の主導権が、国家や社会や組織にあるうちは「コミュニケーション偏重社会」はなくならない。つまりお金を通じたコミュニケーションが「標準」であり、社会や組織などの「大きなもの」に入るためにはそのコミュニケーション方法を身につけねばならないという社会だ。この「通過儀礼」が就活だ。
 お金がベースの社会への通過儀礼として就活があり、その通過儀礼の準備を大学に入ってからそろそろと始める。僕は現在の障害者と言われる方々は、お金がないと社会とコミュニケーションできないという「単一のコミュニケーションの形を求められる社会に適用できない人」だと思っている。バリアフリーが進むことによって身体障害者ができるだけ障害を感じずに済むように、社会のコミュニケーションの在り方が多様になれば、障害者も障害を感じずに済むはずだ。問題は障害者の側にあるのではなく、単一のコミュニケーションで成り立っている社会の方だ。要するに、一人ひとり異なったコミュニケーションの在り方があることを前提とした上で社会が構築される必要があるのだ。
 そのためには「コミュニケーションには単一の形がある」という幻想を捨て去らねばならない。例えば、江戸時代の税の収め方がお金以外にもたくさんあったように、「社会とのコミュニケーションの仕方」は多様で良いのだ。むしろこれからは「お金に包括されない社会とのコミュニケーションの術」を持っておくこと。お金という「万能物差し」をあえて脇において、「自分の関心」という自分にしか分からない「専用物差し」を磨いておくことが、人との比較によってではなく、自分の目で世界を見る唯一の方法なのだ。まずはお金にならないことをとりあえず続けてみよう。それが「土着」への第一歩だ。

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