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1.肛門の感触、あなたを信じてる

摘便という言葉を知ったのは、重度の脳性麻痺であるAさんの介助に入るようになってからだ。

摘便とは、自力での排泄が困難な人へ行う介助であり、介助者が肛門に直接手を入れて便を掻き出す行為を指す。要するにうんこをほじくり出すのだ。

初めて介助に入った日にこれを行うと聞いたときは心の底から「ホンマかいな」と思ったが、先輩が行う摘便の手際のよさと、この行為からみなぎる迫力に、なにか感心してしまい、それほどの抵抗もなく実践に移っていった。

Aさんをうつ伏せに寝かせてパンツを下ろす。ラテックスの手袋を装着し、右手の指にたっぷりワセリンをつける。周辺から肛門に向けてワセリンを塗ってゆき、肛門が緩んできたのを感じたらゆっくりと中指を入れていく。

第二関節まで入ると、内部の空間を感じる。テニスボール一個分ほどの広がりがあり、指一本を動かすには余りある広さだ。この時点で指の先端に触れるぐらいの位置に便が控えていることが多い。

さらに少し指を進め、便のおおよその量を探ったらいったん指を抜く。肛門を刺激されたAさんはいきみ始め、少しずつ便が出てくる。二、三分待ってから再び指を入れると、出口近くまで便が来ている。中指を根元近くまで入れ、奥からそっと手前に手繰ってゆく。中指一本分ぐらいの量を捉えたら引き抜いて、指に乗った便をトイレットペーパーに落とす。これを二〇~三〇回ほど繰り返す。最後の方はいきみによって自然に出てくることもある。

内部に便が残っていないことを確かめ、Aさんの感覚でも残便がないことを確認したら終了となる。


やってみる前は想像を絶すると思ったが、一度指を入れると思ったよりは抵抗がなくなる。肛門内を傷つけないようにと気はつかうが、尿のときに男性器を触るのとそれほど大きな違いは感じない。こうしてみると体外と体内という区別は曖昧なものだ。事実、口から肛門までの一繋がりは裏返せば外側であるとも言える。魚の腹を割いて肝を取るときのほうが、禁断の部位に触れているように感じているかもしれない。


とはいえ、ときどきふと、これはいったい何をしているのだろう、と思う。


摘便にかぎらず、介助では身体を密着させることが多い。身体を抱えて移動するときなどは特にべったりと密着する。互いの重心の位置を一致させれば負担が大幅に減るからだ。最もプライベートな空間である家の中で、何度も、時には裸で、身体を密着させていると、なにか特殊な情感が湧いてくるように感じることもある。

身体を触れあうことが感情に影響を及ぼすというのは、わりと当たり前のことだ。だけど普通、もともと親密な間柄でなければ、べったりと触れあうことはない。ここで起こっているのは、いったい何なのだろう。


予想したほどの抵抗は感じなかったとはいえ、排泄物にさわるのはやはり嫌だ。この仕事が「3K」に分類されることがあるのも理解できる。きつい。汚い。危険、はそれほどないが、給料が安い。汚いことと給料が安いことは、現代ではとりわけ忌み嫌われる。さしずめこれは現代の穢れか。

かつての穢れというと、代表的なものは「死」だろう。葬送や屠畜など、死と接する仕事は穢れたものであり、いわゆる被差別民がそれを担っていた。一方で、彼らは朝廷から保護される存在でもあったという。穢れと神聖さは背中合わせなのだ。

現代では、死はひたすら覆い隠される。ネガティブなものでしかなく、とにかく遠ざけておきたいと誰もが思う。だけど、私たちは必ず死ぬ。

普通、死後の世界を感じることはできない。それは私たちが普段知覚する世界の外部にある。かつては死と接する人々がこちら側とあちら側の仲立ちをして、外部への通路となっていた。


死ぬことはまた、生まれることと背中合わせだ。


死と出産は深く関わっている。出産時に子どもが死ぬことも、少し前まではよくあることだった。

子どもは、外部からやってくる。アイヌの伝承では、言葉を話し出すまで子どもは神様であると考えるらしい。神の世界から、母親の身体をとおってこの世界にやってくる。このとき女性の身体は外部への通路そのものだ。

無事に生まれてきても、赤ちゃんはいつも死と隣り合わせだ。ちょっとした事故で命を落とすかもしれない(実際、やはり、昔の子どもはよく死んだ)。赤ちゃんと暮らしてみると、想像していた以上に、いつも目が離せない。おはようからおやすみまで、親はいっときも休まずに赤子を見守る。

意識される死と比例するように、命の輝きもまた大きい。赤ちゃんは朝起きると、ピカーっと笑う。いま生まれてきたのかと思うような、輝きに満ち満ちた笑い。

まるで毎日、死と誕生を繰り返しているかのようだ。


それにしても、これほど無防備な状態で生まれてくるというのは驚くべきことだ。ほとんど自由にならない身体で生まれてきて、長いあいだ親の完全な保護を必要とする。丸ごとすべてを親にゆだねることに決まっていて、親を信じきって生まれてくる。

大人が人に身体を丸ごと委ねることは滅多にないが、治療関係のなかでは近いことがしばしば起こる。治療も信頼関係が重要だ。特に非西洋医学の、化学物質を用いない療法では、治療者と患者のあいだに信頼がなければ効果はひどく薄れる。


信じることで生まれる力。

目には見えないし、意識では捉えられないかもしれない。だけど、たぶん誰もがそれを感じながら生きている。


介助は信頼がすべてと言ってもいい。介助者の技術が高くても、信頼がなければ当事者は身体をゆだねることができない。介助者のほうも、信頼されていると感じなければ、肛門に指を入れるなんて怖くてできない。

摘便の最中に僕が立ち去ったら、Aさんはうんこを垂れ流しながら朝まで横になっているしかない。それだけ僕を信頼しているのだ。そう思うとゾッとする。だけど、なんとしてもやりきろうと思う。


信じることで生まれる力。

あなたを信じている。

あなたがいる世界を信じている。

信じることで命が生まれる。


親を信じ、生まれ落ちるこの世界を信じることで、命が生まれてくる。そもそも親がこの世界を信じていなければ、子どもをつくろうと思えないだろう。

毎日、生まれたての笑顔と無条件の信頼で赤ん坊が僕の腕にいるかぎり、僕はおしみない愛で応える。こうやって、信じることが命をつないで、世界をつづけていく。


Aさんの介助をするときの感覚は、愛とはずいぶん違うものだ。だけど、そこには驚くべき信頼がある。それが契約関係と生活の必要からやむにやまれず負ったものではあっても。

人を信じることがひどく難しくて、世界をつづけていく気も失せてしまいそうになる世の中で、命の力はどんどん減衰しているようにも思える。そのなかで、介助のようなことを通じて、たとえ義務や必要からであっても信じることができれば、そこにはきっと力が生まれる。そのときAさんの口から肛門へのひとつながりは、外部への通路かもしれない。現代の穢れの担い手は、現代になしうるやり方で、神の力へと誘っているのかもしれない(そういえば、恵比寿様というのはあの姿からすると脳性麻痺ではないか、という説もある)。

そういう機会がないままに大人になった僕は、職業的にそれを経験している。だけど、子どものときから互いに身近に暮らし、暮らしのなかで介助のようなことをしていたなら、そこでは契約を介するぎこちなさに邪魔されることなく、より大きな力が生まれそうな気がする。


Aさんの尻を拭くたびに、早く帰って赤ん坊の尻を拭いてやりたいと思う。それでも僕は立ち去らないで介助をする。それがひとまずは給料のためであっても、とにかく絶やさず続けていく。できることならうちの赤ちゃんが神様から子どもへと完全に変わる前に、この不思議な行為を見てもらいたいと思う。そのときあの生まれたての笑顔を見せたとしたら、そこにはたしかに力が生まれているのだ。


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