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言葉にできるという傲慢

「言葉にできるは武器になる」といった本や相手に伝える文章を書くためのロジカルライティングの本を1度は目にしたことがあると思います。おそらくnoteで文章を書いてる人、読んでいる人は文字に触れることが好きで、その文章のおかげで新しい発見をしたり、嫌な気持ちになったり様々な感情を動かされてきた人だと思います。

もちろん私もその1人で、日常から本を読んだり、noteの記事を読んだり書いたり。Twitterで情報を得たりしてます。そうしたときにふと考えることがあります。言葉にできない感情や出来事は必ずある、と。

よく文章でこう書きたいのになんか違うんだよなと思ったり、イマイチ自分が感じてるイメージと違って相手に伝わったりすることってあると思います。単純に文章が上手い下手はありますが、読み手の読解力にも左右されるところはあります。

事実を伝える文章は新聞のように解釈が1つになる文章を書く必要があります。しかし、noteや小説はいくつ解釈が生まれてもかまわない。読み手の背景があるため一人ひとり違って当然です。

少し脱線しましたが、今回言いたいのは、文章で、言葉にできない感情や出来事はあるということです。

文章を書く人間は誰かの琴線に触れる文章を書いているはず。日記だったら自分です。手紙だったらあなた。Twitterだったら世界中の人。

私も何か面白いことや辛いことがあったとき文章に残そうと思うのですが、大抵断片的な情報を元に言葉にできます。しかしながら言葉にできちゃったな、と同時に思ったりします。

世の中には言葉に表せない出来事が必ずあると思ってます。絶景を見た時?宇宙に行った時?家族との些細な日常の瞬間?

全てを言葉にできるは傲慢です。朝井リョウさんもラジオでこれに近いニュアンスで話していました。でもだからこそ文章は面白いなと思います。文章には比喩があります。それこそ好きという感情を空も飛べるはずと表現したり、人生を川の流れに例えたり。

手を替え品を替え誰かに届くように文章を書きます。自分自信を振り返るためでもあったりするのかな。


結論

足を替え棚を替えても届けられない感情がある


最後まで読んでいただきありがとうございました!!



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