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他人の面倒くさい話、について思うこと。

こんばんは、もげらです。

※ 全然まとまらなくて、自分で読み直しても正解がわからなくなりました。
永遠に書いてしまいそうなので、一旦投稿しておくことにします。
後日しれっと書き直している可能性はあります。


昨日、Xで見かけたポスト。



私は自分のことを自分で『面倒くさいやつ』だと思っている。
だから『こんな面倒なやつの面倒な話聞くのって面倒だよな』と自己完結して話さないことは多い。


でも、ひとの『面倒くさい話』は聞きたいと思わせる魅力を含むこともある。
時には聞いていて“おもしろい”と思う。おもしろいというと語弊があるかもしれないけれど、自分と全然違う視点とか発想とか、そういうのっておもしろい。

もちろん相手との関係にもよる。
どうでもいいと思っているひとの面倒くさい話なんて「どうでもいい」以外の何物でもない。(ひどい)


ポストを読んで気づいた『人の面倒な部分は無視したい』。
「無視したい」という気持ちがあるとは予想もしていなかった。
自分の話を「面倒くさいだろうな」と思って話さなかったのは、ある意味では正解だったわけだ。無視したいと思われていることを話すなんて、できれば避けたい。
自分の中にも、無意識でも「無視したい」はあったのかな。どうだろう。



それから、面倒くさい部分ってそのひとの『マジな部分』なんだと、ポストを読んでハッとした。
マジな部分 = 本心、本音、本当の気持ち、だと捉える。
どうでもいいと思っているひとのマジな部分には、もしかしたら惹かれるなにかがあるかもしれない。
……というのは、ただの希望でもある。

好きだなぁと思うひとのマジな部分は(恋愛関係でなくても)、知りたいし、知ってもらえたら嬉しいものじゃないのかな。
これもただの希望か。

「面倒くさい話」に対する反応は、相手のマジな部分を見れるのか、自分のマジな部分を見せられるのか、という基準になるかも。



最近は――とまとめてしまうのはよくないだろうけれど――、感情を絡めたコミュニケーションはあまり好まれていないのかな。
そんなことを思ったりもした。

例えば、相手が目の前にいるのにLINEの中で会話する。
これは聞いたこともあるし、実際に見たこともある。(数年前の記憶なので、2024年の今もそういうコミュニケーションをしているかはわからない)

目の前に相手がいるのに、無言真顔でスマホを見つめ文字を打ち込んでいる様子はとてもシュール。

LINEやメールは、表情や態度から「悟られたくない」ときには、とても助けられているのだけれど。ありがとう文明の利器。お世話になってます。

でも目の前にいる相手に向かってLINEはしない。
なんだろうね、“話す行為そのもの”が面倒くさいのかな。

相手とどこまで近づいてよくて、どこから踏み込んだらいけないのか、
そういうことを、相手の表情や態度を見ながら考えていくものなんじゃないのかなぁ。
面倒くさいところも含めて。


なんてことを思っている私は、もう立派な『面倒なひと』であり『古臭いひと』なのかもしれない。


でも、まあね、だらだらと書いておいてアレだけども。
うわべだけの付き合いで良いひととは「面倒くさい話」なんてしないほうが、波風立たずにいられるよね、そのほうがいいよね、と思ったりもする。やっぱり関係性による。

ちなみにポストの最後、『トロ捨ててるな』、好き。


読んでいただきありがとうございます。

2024.01.17 もげら

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