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好奇心の芽を育てていく

小学生の頃にした、ある友人との会話をたまに思い出す。

「昨日お姉ちゃんと喧嘩してさ、めっちゃ泣いたんだよね。でも途中から《涙ってどこから出てるんだろう?》と疑問に思って、鏡で自分の下瞼を引っ張ってみたら、点みたいのが見えて。こうやって涙が出てくるんだ〜って思ったんだ」

身近に感じたたった1つの疑問。そこから友人は、小さな自由研究を繰り広げていたのだ。

彼女はやがて新聞を毎日読む習慣をつけ、知識を蓄えていった。中学でも勉強を重ね、最終的に地元の国立大学に進学したと人づてに聞いた。

不思議に思った出来事から、自分から調べていこうとする好奇心。これが大人になるにつれ薄れているように感じるのは、気のせいだろうか。

わたしはどちらかというと、何でも気になるタイプの人間だった。テレビで知らない単語を見たり、道端で初めて遭遇したものに興味を持ったりしたときは、必ず親に「あれは何〜?」「これはどういう意味〜?」と聞きまくっていた。

だが、当時は両親も忙しくて手一杯だったのか、「こんなこともわからないの?」「自分で調べなさい」と言うことばかり。次第に尋ねる回数は減り、《知らなくてもまあいいや》《わざわざ調べるのは面倒くさい》と思うようになっていった。

引っ込み思案だったわたしは、周りの人に上手く聞くということが苦手だった。そのため、幼稚園に通い始めてからも、何かを感じたときに先生を捕まえて教えてもらうことができなかった。途中から、他の子と先生との会話に聞き耳を立てて《なるほど、そういうことなんだ》と自己解決する方法を身に付けていった。

仕事をしている今、何かと好奇心を求められることが多くなったように感じる。

働いていると「この企画でできることはないか?最近気になったことから思いつく提案はできないか?」と頻繁に尋ねられる。それに答えるには「企画に通じる好奇心」と「普段から育てている好奇心」の2つを最低限備えていなければならないと感じる。

わたしは「企画に通じる好奇心」を掻き立てることは得意だ。目的があって、内容が定まっているから、そこに向かうものを探していけばいい。

ただ、「普段から育てている好奇心」に関しては、何となくだが幼少期で成長が止まっている感じがする。子どもの頃の経験が影響しているのかもしれない。今更どう育てていけば良いのかよくわからないし、そもそもまだそれが残ったままなのか、判断ができない状態だ。

もしかしたら、自分の中の「普段から育てている好奇心」に対するハードルが高いのかもしれない。「これに関しては誰にも負けない!」と断言できる、オタク気質になれるものも、含まれると考えているからだ。

音楽は好き、料理も好き。散歩もよく行くしサウナにも入る。小説や漫画も数多く読むし、旅行にも頻繁に行くほうだ。だからといって、自信を持って《これに関しては誰にも負けない!》と言えるものがあるかと聞かれたら、答えはNOだ。

この感情に長い間悩まされていたし、今も悩んでいる。ただ、1つ言えるとしたら、必ずしも1番だと胸を張れるものがあれば良い、というわけではないということ。

もしかしたら、自分が知らないだけですでに持っているのかもしれないし、これからの人生で見つけられるかもしれない。何もないならそれはそれでいい。いつからだって「好奇心」の芽を育てていくことはできるとも思っているからだ。

身近なところから始めたい。いつもとは違うジャンルのニュースを読む、入ったことがないような店に足を踏み入れる…些細なことから、自分の「好奇心」が芽生えるのを、じっくり待てばいい。

また思い悩むことがあったとき、わたしは涙の根源を調べた彼女の話を思い出す。子どもの頃に抱いたことのある、ちょっと不思議な気持ち。意味が理解できて感動した体験。その小さなを積み重ねから、大人になった今も「好奇心」の芽を育んでいける気がするのだ。

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